2009/07/08

媒体変わるも支配者は同じ

iPhoneに雑誌を有料配信 電通などスタート、年内に30社50誌

電子ブックで肝心な点はコンテンツ。
で、MAGASTOREはさすが電通が総指揮を執っているだけあって、メジャーどころが沢山いますな。角川と集英社はいないみたいだけど。
これが成功して電子雑誌のデファクトスタンダードになれば、Kindleへの国内限定ゼロデイアタックになるなあ。日本の雑誌を電通が支配する、ってのは媒体が変わっても同じ事な訳ね。

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2009/07/05

大物封印はあと1つ

幻のオバQ復活 藤子・F・不二雄大全集24日に(asahi.com)

藤子・F・不二雄 大全集(小学館)

色々あったオバQだけじゃなく、最近元気のないどっかの団体と色々あった「ジャングル黒べえ」も復活するそうな。小学館じゃなければ出来なかった仕事かも。
特設サイトのトップページのバックに「見たことないなあ」という作品をあえて選ぶところが、長年一緒に仕事をしてきた余裕か。
でも、刊行スケジュールのページのバックはオバQだったりして、やはりウリなんでしょうな。

これで封印作品の大物は残すところ「キャンディキャンディ」。これは無理だろうなあ。

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2009/06/25

ボギー、あんたの時代は良かった

さよなら、愛しい人(ハヤカワ・オンライン)

ギリギリネタバレあり。

映画版「さらば愛しき人よ」の主演はロバート・ミッチャムだけど、チャンドラー作品を読むときはどうしても「3つ数えろ」のハンフリー・ボガードが浮かんできてしまう。

それはともかく、恐らくタイトルだけならチャンドラー作品の中でもっとも有名な「さらば愛しき人よ」の村上春樹による新訳。
チャンドラーを知らない人でも何となく知っているタイトルを「さよなら、愛しい人」と改題した理由は書いていないが、「ロング・グッドバイ」の訳者後書きで述べていた、尊敬する先達の仕事と自分の仕事を区別したかったから、というものと同じだろう。

若いなあ、マーロウ、と苦笑しながら翻訳した、と後書きにあるけれど、確かに「ロング・グッドバイ」と比べると明らかに笑わせようとしている言い回しが多い。その分、細部の書き込みから全体を浮かび上がらせる手法は徹底していないので、初めてチャンドラーを読む人にはこちらの方が取っつきやすいかも。
自分も「ロング・グッドバイ」ではじっくり3日くらい潰したけど、こちらは雑用をこなしながらの2日で読めたから。

ストーリーは再読するまで忘れていたけれど、最後の台詞、
「しかしさすがにヴェルマの向かったところまでは見えなかった」
は覚えていたなあ、清水俊二訳とは言い回しが違うけど。作家であれば一度はパクリたい締めだろうな。

ちなみに次は「湖中の女」を訳したいと後書きにあった。
これは最後に確か治安維持かなんかで駐留していた陸軍の偉いさんが言う台詞
「そういうときは撃っていいことになっている」
が印象に残っているなあ。いや、これだけ取り出してみるとなんでいいのか分かりませんが。

ところでこの「さよなら、愛しい人」っていうのは誰に向かって言われているんだろう。読んでもよく分からなかったりして。マーロウはヴェルマに惚れてたわけじゃないし、ムース・マロイは言われる方だし。言われなかったけど。

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2009/06/22

私のペイパーバック

私のペイパーバック(ハヤカワ・オンライン)

恐らく世界的にも有数のペイパーバックコレクションを一望できる一冊。
折り込みのゴールドメダル社コレクションはまさに圧巻。
内容はあっちに飛びこっちに飛びという感じで、モノによっては「これ1冊に引き延ばせるなあ」というネタがあったりして、ちょっともったいない。
そのうち「私のペイパーバック紀行」か「私のハードボイルド紀行」という本を上梓してくれないかなあ。
ところで小鷹さんはジム・トンプスンには今ひとつ乗れないんですな。

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2009/06/21

ランディ・カリフォルニアは故人です

「ライ麦畑でつかまえて」続編、出版差し止めの仮処分(ロイター)

内容がどんな物か分からないのでどちらの主張が正しいのかは分からないけれど、ひょっとしたらこの「ライ麦畑を通ってきて」の著者(J.D.カリフォルニア)と出版元は訴えられてから初めて「サリンジャーってまだ生きてたのかよ!」と思ったかも知れない。少なくとも自分はそう思ったなあ。
著者の名前から判断する限り、パロディなんだろうな。

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2009/06/15

ジョブズの本ではないんですが

メイキング・オブ・ピクサー/創造力をつくった人々(ハヤカワ・オンライン)

「トイ・ストーリー」で広くその名を知られる以前のPixar社史というと、Appleファンの間で「ジョブズがルーカスから買った」ということが知られているくらいだったが、その知識の空白を埋めるのがこの本。どこで誰が創設し、前トイ・ストーリー時代は何をしていたのか、ということを丁寧に追っている。

ほとんど無から登場してアニメーションの歴史を根底から覆してしまったように見えるこの会社。しかし、この会社の歴史は、3DCGというものの誕生と直接的に関わった人たちが、これで長編映画を作るんだという野望を実現するために関わってきた苦闘そのものだったということがよく分かる。

ストーリーの中心人物はエド・キャットムル。まあ、途中からアニメーターのジョン・ラセターが主人公になっちゃうんだけど、創設者は彼。
彼はユタ大学に在籍していた時に3DCGというものの着想を得て、実際に作成までしたのだという。
当時のユタ大学はコンピュータ学界の梁山泊だったそうで、そのためにこの章ではちょい役ではあるものの、ジョン・ワーノック(Adobe創設者)だのジム・クラーク(SGI、ネットスケープ創設者)だのアラン・ケイだのといった錚々たる面々が登場する。ほとんどの人たちはここで名前が出るだけだけど、アラン・ケイはPixar買収の時にジョブズに話を通してくれたそうな。

その後の苦闘話は面白い。やっぱり伝記物や社史物でで一番面白いのは「どうやって危機を乗り越えたか」という部分ですな。
だから本来、トイ・ストーリーで成功したあとは急速につまらなくなって収束するはずなんだけど、そんなことがないのがこの本の面白いところ。
先にも書いたが、ここのオーナーはスティーブ・ジョブズ。この劇場(激情)型経営者が要所要所でストーリーを盛り上げる。プレ・トイ・ストーリーの苦闘時代は役員とのすったもんだや赤字続きにいい加減嫌になっての売却交渉(トイ・ストーリーの出来とディズニーの広報活動における凄まじい社会的影響力を見て思いとどまったという)で、成功してからは大コングロマリット・ディズニーとの丁々発止のやりとりで。
終わってみると「ジョブズって面白いなあ」という筋違いな感想を抱いている自分に気がつく本。
Pixarが成功したのは、この素晴らしすぎるオーナーがApple仕事で忙しくなって代表としての対外交渉以外ではそんなに会社に関わらなくなったから、とはよく聞く話ですな。

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2009/05/31

マーシー救済プロジェクト本

田代まさしに緊急インタビュー—自伝『審判』を出版した真意とダジャレの帝王の近況は?(新刊JP)

元ヤンキーではあったもののやくざ屋さん辺りとどうこうするほど悪くもなかった、割と普通の人がなんでここまで落ちるのか、という不思議さ。これを赤裸々に語った自爆本。

今もそうなのかは分からないが、創出版から直接予約購入するとマーシーのサイン本が買えてしまった。なので自分が持っているのもサイン本。

内容は非常に面白い。最近話題になったム所本というと花輪和一の「刑務所の中」なんだろうけど、どっちかというと彼のようなアウトサイダー色の強い人じゃなく、家族に見捨てられて自暴自棄にはなっていたけど、基本的な感覚は普通の人、というマーシーが描く刑務所事情の方がおそらく「自分が刑務所に入ったらどうなるか」というイメージに近いと思う。
先が見えにくくなった時代、良くなるのか悪くなるのかも分からない時代に「普通の人だって簡単にここまで落ちるんだよ」というモデルケースともいえるマーシーの出所が話題になったのは、ある意味必然だったのかも。

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2009/04/04

ニッポンの恐竜

(Amazon)

近所の本屋に「オバマ・ショック」を探しに行って隣にあったのでついでに買ってしまった本。
リアル本屋の醍醐味はこういったところ。CD屋なら「ジャケ買い」か。

和製恐竜の大メジャーと言えば「フタバスズキリュウ」(いわき市石炭科学館)。
ただ、その名を心得ているのは「のび太の恐竜」に涙した思い出を持つ30男か、そいつにリメイク版を見せられることになったその子供だろう。米国製の恐竜で構成された「ジュラシックパーク」に乗った世代は知らないはずだ。

ところがこのフタバスズキリュウの正式な研究論文が発表されたのは2006年。発見されてから38年も経ってからで、それまでは正式な学名すら付いていなかったんだそうな。「日本最初の恐竜(実際にはサハリンで発掘された)」ニッポンリュウはもっと凄くて62年経ってから。イナイリュウなんてそこそこ骨格が揃って発見され論文も発表されながら、化石そのものを紛失してしまった。

なぜこんなことになってしまうのかという事情を説明したのがこの本。
結局のところ、フタバスズキリュウクラスの大型標本を扱いたくても人がいなかったのが大型化石が発掘された後の大きな問題だという。「人手がない」んじゃなくて「人がいない」。
アメリカや中国、ヨーロッパ各国といった大型恐竜や首長竜の発見が多い場所なら人材が揃っているのだが、日本では滅多に発見されないものなので大型化石を扱える人が育てられなかった、ということらしい。
だから取りかかる人もゼロに近いところから知識を積み上げる必要があったわけで、その作業に掛かりきりになれる人じゃないと、とてもじゃないが完成までこぎ着けられない。
例えばニッポンリュウは1人の研究生が、アメリカの研究者の助力を得ながら専属でひたすら作業に従事し続けた。
フタバスズキリュウはアメリカで首長竜を研究してきた学者が帰国して研究チームに参加してからやっと具体的な成果が論文として発表された。

しかし、じゃあそれまでフタバスズキリュウの「研究チーム」って何をしていたんだ、という疑問にはこの本は答えてくれていないが、古生物研究はそもそもが時間の掛かるものなんだろう。
更に、この本でもいくつか事例が挙がっているが、その後の二次発掘、三次発掘で結果が変わってしまう可能性がある。だから慎重な人ほど結論をなかなか出せないんだろう。それに、今現在国内で体制の整った古生物研究所といえば福井県立恐竜博物館くらいっていう状況も条件を悪くしている。

そもそもが人間よりも遙かに長い期間に渡って地球上を支配してきた恐竜たち。研究もそれにふさわしくじっくりと勧める他ない、ってことなんでしょうな。

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2009/03/21

ブラッディ・カンザス

(Amazon)
先週末はこれと「ロング・グッドバイ」を読んで家事も雑事も何にもせずに見事に2日間潰してしまった。完全ダメ人間モード。書評家ってのはそういう毎日を送っているのかなあ。
そんな個人的事情はともかく「ブラッディ・カンザス」。著者の人気シリーズV.I.ウォーショースキーものとは直接の関係はない。ミステリーでもない。強いていうと主人公一家の父親の兄がシカゴで弁護士をしていることくらいか。ウォーショースキーものは読んだことがないから知らないけど。

911前後のアメリカ中西部(バイブルベルト)で派手に取り上げられやすい出来事を織り込んで作り上げられた「アメリカ農村事情」。挙げてみると
イラクにおける肉親の戦死
白人を「白い土人」化するキリスト教福音派の興隆
隠れた同性愛
学力よりもアメフトの成績が重視される教育事情
等々。町山智浩の著作に親しんだ人にとってはおなじみの話ですな。
1つの田舎町(もっと言えば1つの家)でこんなに色々起こるのか、ちょっと道具立てが都合良すぎないか、展開が早すぎないか、という点は読んだ後に気がつく。細かい描写の積み重ねで、読んでいる間はそういったことを感じさせないのが作者の力量、訳者の力量。
ただ題名の元となった歴史的事件とストーリー自体はそんなに関係がない。せいぜい主人公一家の母親がその時代の日記を見つけて執着していることくらい。南北戦争時から続くサーガ物みたいなつもりで読み始めるとちょっと肩すかし。そんなサーガものだったら1冊には収まらなかっただろうけど。

割と「え、これで終わり?」ってな感じの終わり方なので、恐らく続編はあるだろうな。

しかし「田舎町の狂気」ってなんか既視感があるなあ。あ、ジム・トンプスン(New York Timesの格好いい写真)か。こちらは主人公が狂気なんだけど。

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2009/01/01

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
新年早々風邪を引いて寝込んでいました。避けようのない寝正月。
今年もいいことありそうな。

ところでRSSで見ていたら「炎のいけにえ」のサントラ(要iTunes)が本年正月に新規追加になったとか。
新年早々なかなか気色良いジャケット。モリコーネってこういうクズ映画でもちゃんと仕事するからえらいなあ。そうだ、これを新年の誓いにするか。どんな仕事でも一生懸命すること、、、か。仕事がそもそも見つからない人々には失礼な話だな。

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2008/09/21

さらば古典的ハードボイルド

訃報:ジェームズ・クラムリーさん 68歳 死去=米国の推理小説家(毎日jp)

北杜夫の「さびしい王様」で「英国紳士は晩年、暖炉の前でパイプを吹かしながら探偵小説を読む」という台詞がある。読んだ当時はよく分からなかったけど、「ミステリーを読んで『いいよなあ、事件解決すれば終わりだもんなあ』と思わないくらい悟った老境」ということなんだろうな、ということが最近分かってきた。
自分はそれほど悟っていないのでミステリーはほとんど読まない。
逆に言うと、そういうことに気がつかなかった頃は結構熱心に読んでいて、その頃にハードボイルド派の正当後継者として位置づけられていたのがジェイムズ・クラムリー。

彼は寡作家なので長編は全部読んだ、と思い込んでいたが去年の冬に「正当なる狂気」というC.W.シュグルー・シリーズの翻訳が上梓されていた。
シリーズもののもう1人、ミロ・ミロドラゴヴィッチものは4年前に出た「ファイナル・カントリー」が最後。「明日なき二人」でこの2人を競演させてからそれぞれ1作ずつ「後日談」を出した格好になり作風と異なってなかなか律儀な末期。

代表作「さらば甘き口づけ」は現代風の味付けはされているものの、内容は古典的なハードボイルド。評価が高いのはそのためかも知れない。
で、あからさまに古典的な「探偵さん」のシュグルーに対し、ミロは「老境になるまで信託財産を貰えないええしのボンボンで元警官」。酒と麻薬におぼれたオヤジで女には手が早い。「元警官」ってのは「格闘できる」という設定にリアリティを持たせるためとしか思えない。おそらく作者がそのままキャラクター化された主人公。あるいは作者の妄想が。
「作られたキャラクター」シュグルーが結婚して「落ち着く」のに対し、ミロは老境に差し掛かるにつれて元気になりモテるようになるのは、年齢とともに作者の妄想に拍車が掛かったからじゃないだろうか。最終作「ファイナル・カントリー」で執拗なエロ描写がある点なんかも「老人」っぽい。このシリーズは「ダンシング・ベア」以降は下降線っぽい感じがするけれど、おそらく作者の箍が外れたからでしょうな。そういう意味では「私小説」。でも彼の「私小説」だともっと傑作の非ミステリー小説「我一人永遠に行進す」があるんだけど、品切れですか?

「作者の妄想」以外でシリーズのアクション度が高くなっていった理由で思い当たるのはジェイムズ・エルロイの台頭とジム・トンプソンの再評価。警察の裏側から政治の裏側に至ったエルロイのスケールとトンプソンの倒錯を前にすると、クラムリーの作品は正当派に過ぎる。その殻を齢60を過ぎてからも破ろうとし続けたとしていたのなら、常に挑戦し続けたという点で凄いと思う。作風との融合がとれていなかったのはともかくとして。
確かに80年代で終わった人なのかも知れないし、Wikipedia日本語版にも彼の情報は載っていない。だからこそ「ハメット→チャンドラー→マクドナルド」ラインの正当後継者なんだろうな。もう「古典的ハードボイルド」は成立しない世の中なんだろう。

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2008/09/07

1年半後の追悼セール

カート・ヴォネガットの「死よりも悪い運命」(ハヤカワ・オンライン)が文庫化なったことから買い込んで何気に巻末の著作リストを見ていたら、長らく品切れ状態になっていた彼の一部著作がハヤカワSF文庫でほぼ出揃ったことが判明。
「母なる夜」は白水社から新書版が出ていたが、「スラップスティック」と「ホーカス・ポーカス」は長いこと品切れ状態だったはずなのでまずはめでたい。
ということで、早速近所の本屋で「スラップスティック」を買ってきたが、翻訳は昔のまま。本当に単なる「増刷」。「死よりも〜」と違って判型が変わった訳じゃないのでそのままらしい。
と、すると他の2冊もおそらくそうか。
自分的には「ホーカス・ポーカス」は単行本で、「母なる夜」は白水社版でしか持っていないので購入を検討中。でも「改訳」を期待して買う人は、奥付をちゃんと確認した方が良いかも。

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2008/02/04

オン・ザ・ロード

(河出書房新社)

話題になった新訳版をやっと読了。
よく言われる「流れるような文体」を日本語化するとこうなります、というリズミカルな名文に仕上がった訳は
「ああ、このリズムがなかったから旧訳は『一生懸命』読まなきゃいけなかったのか」
ということがよく分かる。
著者は嫌がるだろうけど、パッと開いたところから読み始めてもこのリズムに乗っていける。世界中のバックパッカーが愛するのは、こういった幾分リーズナブルとも言える部分だったのかも知れないな。

しかし、この疾走感を支えるディーン・モーリアティが静かに主人公の前から消えていく第5部は、執筆当時はもちろん出版当時でも存命だった彼の末期を予見しているようで泣けてくる。
彼に感情移入する読者はあまりいないと思うけど、ヒップスターになった以上は滅んでいく運命を逃れられないのか、と感じるのは自分が年を取った証拠かな。主人公も「そろそろみんな落ち着いてきたんだよ」なんて言って「最後の旅」に出かけるし。

確かに当時の価値観で語られている事も多いから、今になってみると違和感を感じる部分もある。
けれど当時のアメリカ、
「20万円も用意すれば、立派に走る中古車が買える」
「定職に付かなくても、何となく食っていける」
という経済状況に追いついた今の日本だから、共感できる部分も増えたんじゃないかとも思う。少なくとも翻訳が出版された当時、1959年の日本よりも。

読むのに前知識が必要となる小説じゃないから、学生の教科書にして欲しいよなあ。
そうすればネット難民の中から、次のケルアックが生まれるかも知れない。

ところで、この小説が発表されて30年くらい経ってから、ケルアックの盟友、ウイリアム・バロウズが「デッド・ロード(Place of the Dead Road)」という正反対とも言えるタイトルの長編をモノにしている。内容面も正反対。「結局、世の中は変えられない」という諦念に満ちている。
この小説、というかタイトルを思いついたとき、ケルアックの傑作はバロウズの念頭にあったんだろうか。

「バロウズ・ブーム」の時に思潮社から翻訳が出ていたけど、もう絶版らしい。自分もブームにノセられて買ったクチ。しかし翻訳した人が山形浩生にボロクソ言われている人。内容としても苦労して古本を探すほどのものかといわれると、ちょっとそれはどうだろう、という出来。新訳が出たらどうぞ、、、無理かなあ。

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2008/01/01

新年のご挨拶

新年のご挨拶

壁が汚れてるなあ。

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2007/07/09

失われた男

失われた男(Amazon.co.jp)

今のところ訳出されているトンプスン作品の主人公の性格は大体決まっていて、
「確かに頭は斬れるが、自分が思っているほどは斬れてはいない」
自意識過剰気味な20代後半から30代くらいの男。
そして「理由はどうあれ自分は世間に貸しがある」という無意味な怒りを胸に秘めている。
話の展開も大体一緒で、ハメたつもりでハメられたか、ハメられはしなかったもののにっちもさっちもいかない状態に落ち込んで、破滅かそれに近い状態になったところで終了。
毛色が違うのは「残酷な夜」くらいか。これはミステリーと呼ぶのもちょっと違う気がするけど。

「失われた男」はこのトンプスンパターンにぴったりハマる。

ちっぽけな町のちっぽけな新聞社で頭の鈍い社長や同僚たちを舌先三寸で調子に乗らせるかやり込める男。
突っ込む相手もいないので類い稀なる資質を持つと自分で思っている彼が、完全犯罪をユルく完遂させたと思っていたら、鈍い奴の1人と思っていた男の手の中で踊っていただけだったという事実を知ることになる。
この主人公には詩を書く趣味があり、アルコール依存症という特徴が加わるので、今まで訳出された作品の中では一番作者に近いかも知れない。

「こいつは最後まできちんとやらない男なんだ」

間接的に主人公を評した言葉。
そしてきちんとやらないがために、空虚と知った自分と付き合い続けなければいけないことを思い知らされるラスト。

トンプスン作品に没入できるのは、主人公の心情が他人事とは思えない(きちんとできない)男たちだと思う。
全作品とも全くすっきりとしないラストに深く同意できてしまうのは、そんなところにあるのだろう。
ポジティブな人生を送っているとは言えない人たちには深く刺さる作品であることは間違いない。ただし、そんな状況をある程度笑い飛ばせる余裕があれば、だが。

ところでこの作品、主人公はきちんとしていないながら、その他登場人物たちが持つちょっとした謎やその後の生活にぞんざいながらちゃんとフォローが入っている。
てっきり伏線かと思った謎がなんてことなかったりする部分は拍子抜けだが、それなりに収束させているところを見ると編集者から突っ込みが入ったのか、実在の人物をモデルにしていてあまり突き放した書き方が出来なかったのか。
主人公が作者に近いところを考えると、案外後者かも知れない。

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2007/02/11

ボブ・ディラン自伝(Vol.1)

ボブ・ディラン自伝(Amazon.co.jp)

結構前に買ってあって、最近になって急に読んだ。
もう2年くらい前に出てる書籍ではあるものの、団塊の世代達が信じるディラン神話をディラン自身が破壊している部分があるので、退職後にこれと併せて「No Direction Home」(Amazon.co.jp)を鑑賞する事で、「フォーク世代」の思い出をリセットするのによいのではないかな、と。訳者もディラン・ファンには歌詞翻訳でお馴染みの菅野ヘッケルだし。

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2007/01/01

遅ればせながら年始のご挨拶

明けましておめでとうございます。
このような拙文を貴重な時間を割いてご高覧頂いている旨、大変に感謝いたします。
旧年は上半期末と下半期末で仕事が立て込んでいたり、いろんな意味で燃え尽きかけていたりと色々あって更新が滞った時期がありましたが、このように続いているのもひとえに「見てくれている人がいる」というだけで、モチベーションを新たにする事が出来たからです。
これからもよろしくお願いします。

さて、年始の挨拶というと思い出すのが赤瀬川原平の「外骨という人がいた!」(Amazon.co.jp)で引用されている宮武外骨の言葉。
年始の挨拶の葉書版・年賀状という物はかつて年始の回礼が終わった後に書くのが通例だったそうで、要するに「年賀に書くから“年賀”状」というのが正統だったらしい。
「官が『年賀状は何日までに』なんて言うな」なんて事を書いているところをみると、年賀に着くから、という考え方は郵便制度が確立してからなのかも知れない。
つまり、年末の繁忙期を更に込み入らせる「年末に年賀状を書く」という行為は単に郵政側の都合に乗せられただけという見方も出来る。

という事は元日になってから年賀状を電子メールで送る、という行為は全くもって日本の伝統に則った正しい行為であって、むしろ「伝統」と「電脳」の幸福な融合とすら言える。

てな訳で、個人的には郵政公社が
「年賀状を出すと電子メールで年始の挨拶を送るよりこれだけ省資源化に繋がります」
という具体例を挙げてくるまで年賀状を書く気には全くならない。
え? 電子メールを使えないおじいちゃん、おばあちゃんへは礼を失してしまうって?
会いに行きなさい、会いに。年賀状を書かない分、身体が空くでしょう。

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2006/02/13

iCon・スティーブ・ジョブズー偶像復活

(Amazon.co.jp)

ジョブズCEOの新しい伝記『iCon』(HOTWIRED Japan)

怠惰な休日の午後を目一杯潰すのには最適な分量を誇る1冊。
なんといってもシリコンバレーの波乱のプリンス、スティーブ・ジョブズの伝記であるからして、ハイテク業界の情勢に興味の無い人でも楽しめる。

ジョブズの伝記は覚えている限りでは4冊目。
記念すべき1冊目、
「スティーブ・ジョブズーパーソナル・コンピュータを創った男」
はジョブズがAppleを追放されてNeXTを創設するまでを、
2冊目、
「スティーブ・ジョブズの道」
はNeXTにおける苦闘を、
3冊目
スティーブ・ジョブズの再臨―世界を求めた男の失脚、挫折、そして復活」(Amazon.co.jp)
はそれに加えてPixarにおける苦闘と、Appleへの復帰、そしてAppleを自分のキャリア共々ハイテク業界で再生させるまでを描いている。

そして4冊目になる、
iCon・スティーブ・ジョブズー偶像復活」(Amazon.co.jp)
先の3冊を引き継いだ「その後」を描いているのはもちろんだが、スティーブ・ジョブズ本人に焦点を絞っている点が異なる。

これまでの3冊はジョブズが創設(Apple、NeXT)、または買収した企業(Pixar)との絡みが中心で、ある意味「企業人としてのジョブズ」という面から見たものだった。
ジョブズに関しての評価は色々あるが、基本的なものは
「外ヅラは最高だが、部下になろうものなら絶対の忠誠と最大限の努力を求められ、その上指示は朝令暮改」
というもの。
先の3冊はそういった部分を定期的にまとめて各関係者の証言で裏付けるリポートみたいなところがあり、だから面白い。

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2006/01/04

オシムの言葉

(Amazon.co.jp)

著者の経歴を考えれば仕方ないし、この人でないと出来ない著作物であることは確かだけれど、ピクシー関連のこれまでの作品と比べると著者がオシムに喰われっぱなしという感じはする。
まあ、あの人とまともに対峙出来る人間なんて世界中探してもそうはいないだろうけど。
年の初めに自分に気合いを入れるには最良の1冊。
中盤の壮絶な道行きを読んだらW杯のことを「戦争の代替物」なんて軽々しく言えないね。

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2005/07/25

一番好きな漫画家だったかも

文筆家の杉浦日向子さん死去 江戸風俗研究・漫画で活躍(asahi.com)

浮世離れしていた人が、本当に浮き世から離れてしまった。

個人的に好きな作品は合葬(Amazon)だなあ。

自分と繋がっているとは感じられない過去・江戸時代をノスタルジックに描く事が出来た数少ない人だったと思う。
作者本人が「江戸時代に生きたい」というよりも「これは滅び去った時代、滅び去った価値観」と自覚していた故か、どの作品にも江戸情緒だけじゃなく、そこはかとなく死や滅びの匂いが漂っていて、それが独特の浮遊感に繋がっていた。

それがもう味わえないのかなあ、と思うと少し寂しい。
本人は「隠居」していたけど、生きていたらまた描いたかも知れないし。

ちなみに紹介した「合葬」は、江戸という時代とともに滅んでゆく文化、価値観を彰義隊の敗北と重ね合わせている話なので、レオーネやペキンパーが描いた「滅びゆく西部」ものに感触が近い。
日本の映画界ではこういう時代劇を作らなかったから、余計に印象的。
ラストサムライなんかで感動しないでくれよ、と言いたい。

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2005/06/07

異形の監督 ジェス・フランコ

Francoジェス・フランコが偉大な映画監督である事に間違いはない。
200本近い映画を息をするように撮り続けてきた監督が偉大でないはずがない。
それも全てフィルム撮りで。
とはいうものの、収録されているインタビューでは「別にビデオだっていいんだよ」と言ってしまったりする肩の力の抜け具合がまた良かったりするわけで、この辺は「撮れれば何でもいいんですよ」と言ったりする石井輝男に通じるものがある。

この脱力具合を著者は見習えなかったようで、ほぼ全編に渡って力みなぎる偏愛表現のつるべ打ち。
特に前半部分では作品紹介の最後に必ずと言っていいくらい「お勧め」という言葉が連打され、業界向けのビデオガイド状態。
紹介している作品とは関係のない事が長々と書かれていることもあり「作品自体には紹介するような事がないんだろうなあ」と意地悪な読み方まで出来てしまう。

要するに300ページ以上を費やしたジェス・フランコのファンジン。
ジェスの本質を突いていると思える文章はこの分厚いファンジンの中で2行くらいしか出てこない。
文中から引用すると、
「彼はそう多くの引き出しを持った監督ではない(引き出しの少なさを作家性と呼ぶ事もある)」伊東美和氏
「裸が何を示すのか? 何もなく、ただ裸」中原昌也氏
の2行。

予約までして買う本じゃなかったなあ、ってのが正直な感想。
同じ映画秘宝コレクションの「ゾンビ映画大事典(Amazon)」が非常に良くできていたので期待していたんだが。

ちなみにジェス自身はかなり狭い世界(ジェス・ファミリー)にこだわって映画を撮る人なので、長く多彩な映画人生を送りながら、そのキャリアにはクラウス・キンスキーとクリストファー・リーくらいしか有名人が登場しない。
キャロライン・マンローとかいたりするが、一般に知られた顔とは言えないし。

著者ともう1人変なプロパガンダみたいな文章を書いている人が見習ったのは、この頑迷さかも知れないな。

ただファンジンとはいえ、この先「フランコ本」が出版されるとも思えないので、資料的な価値はある、、、かな?

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2005/05/19

山本昌邦指南録

Shinanrokuタイトルの付け方に色々言われているが、「著者本人が指南した事実の記録」ということで、指南方法のイロハを記録しているわけではない。

と、アタマでは分かっていたものの、やっぱりタイトルの影響もあって(笑)、発売直後に購入はしていたがなかなか読む気にならず、結局このような中途半端な時期になって手に取ることになった。
備忘録」が結構腹の立つ本だった、という事もあるが。

文章は平易で大変読みやすい。一晩で読める。

前半は山本監督自身の半生記。
興味深いのはコーチ転身以後に関わったビッグイベント「ドーハの悲劇」「アトランタ五輪」の回顧。
日本サッカーがアジアから世界へとシンクロの度合いを拡散させていく際に当事者が肌で感じたことの記録となっているだけでなく、感傷的に語られやすいこの2つの節目が客観的に分析されている点が新鮮。
これはすでに時間が経過している事と、監督や選手でなくコーチというやや引いた立場から見ることが出来たから、と思われる。

実際に自身が「指南した記録」となるアテネ五輪となると、時間も経っておらず引いた立場でもなかった事から第三者的な視点は当然なくなる。

特にアトランタのブラジル戦とアテネのイタリア戦に対する記述の違いにそれが感じられる。
ブラジルに対しては「ロナウドは高さがあったので松田にこう指示した」「リバウドはまだパッサーだったので助かった」とそれぞれの選手を分析する余裕があるが、イタリアに対しては「ジラルディーノがあんなに凄いとは思わなかった」という、アトランタでもっと凄かったチームと対戦した当事者とは思えない感想を思わず吐露してしまう。
「生で見てみないと分からない部分もある」と述べてはいるものの、自チームの面倒で手一杯だったという事が分かる瞬間であり、筆者は一言も書いていないが「コーチと監督は違う」という事を臨場感を以て感じさせてくれる。

この臨場感はアテネ五輪代表に関する記述に共通して感じ取れる。
だから「本戦から逆算した日数を元に目の前の試合をどう進めるかというプランの遂行だけで一杯いっぱい」という切羽詰まった感触を筆者と共有できるので、正直言って前半よりも読んでいて面白い。
職場で「リーダークラス一歩手前」の立場にいて、リーダーの仕事ぶりを眺めながら「俺がやればもっと上手くやれる」と考えている人が読むと身につまされるんじゃないだろうか。

ちなみにその中間的立場といえた「日韓W杯」に関する記述はほとんど無い。
今更書く事もないんだろう。
備忘録が原因でトルシエと仲違いした事なんか無い、という補足があるくらい。

感情論と自身のサッカー観が交錯した挙げ句、冷静なドキュメンタリーとしても感情的な暴露本としても中途半端なまま、トルシエ観察記と化した「備忘録」と比較して、山本監督自身のサッカー観、サッカーに限らない組織論としては当然の事ながら遙かにまとまっている。
前半が理論で、後半のアテネ五輪が実践、といったところか。

更に「備忘録」には上司との葛藤を抱えて仕事を続けるという、そこら辺の勤め人にとってもリアルすぎる悲哀が全ての章に感じ取れ、読んでいて嫌になる部分が結構ある。
「備忘録」を先に読むと、トルシエに対してだけでなく、山本監督に関してもいい感情を抱けなくなるから、むしろこちらを先に読んで2002W杯の大騒動に興味を持ったら「備忘録」を読む方という形にした方がいいかも知れない。
もちろん「山本監督のサッカー観に興味がある」人限定のお勧めとなるが。

巻末付録(?)の「山本昌邦 指南三十六法」は余計。
この手のノウハウで金を取るなら、誰もがひれ伏す圧倒的な実績を背負っていなければならない。
その資格がある日本国内のサッカー監督は、岡田武史かトニーニョ・セレーゾ。Jリーグの成績に限らなければイビチャ・オシムか、エメルソン・レオンくらいだろう。
だから「付録」か。

ついでに表紙写真にはわざと帯を付けてみた。
ここにある「日本型組織と日本型リーダーシップの云々」というコピーはかなりの拡大解釈なので、何かサッカー以上のものを求めて読んだ人は肩すかしを食らうんじゃないだろうか。

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2005/05/07

日本ロック雑誌クロニクル

Chronicle「ニューミュージック・マガジン」「ロッキング・オン」「宝島」。
この言葉に恥ずかしさを感じる中年は結構な数に上ると思う。

個人的にもその1人であったりするわけだが、その恥ずかしさをまとめて追体験できるお得な1冊。

著者の本業は大学教授というだけあって、事実を細かく積み上げて分析していく手腕はさすがだし、フォークも含んだ日本ロック史のお勉強も出来るという点も「先生のテキスト」っぽい。

この本で紹介されている雑誌は「ミュージック・ライフ」「ニューミュージック・マガジン」「フォークリポート」「ロッキング・オン」「宝島」「ロック・マガジン」の6冊。
選び出された基準は「日本のロック界に何らかの流れを引き起こしたか否か」ということになるようだ。

まず第1章は当然のごとく「ミュージック・ライフ」。
これは雑誌自体がムーブメントを引き起こした、というよりもビートルズに乗っかったら流れに乗った、というわけで他の雑誌とは少々スタンスが異なる。
「ミーハー的」と筆者に言われる編集方針は特異なものではなく、雑誌としてはむしろ普通だろう。
ただ「雑誌=情報誌」だったころの雑誌は、他では紹介しないものを扱えばムーブメントの中心にいることができた。
それ以前に、このころの日本のロック界は「ミュージック・ライフ」1冊で事足りる程度の聴衆しか持たなかった。
筆者はミーハー的なミュージック・ライフの役割は70年代末に終わっていた、それはつまりロック界が変質して女の子ウケするミュージシャンがいなくなってしまったから、と認識しているようだが、以前ほどの部数は見込めないにしろミーハー的価値観で紹介できる、つまり女の子ウケするミュージシャンは洋楽全般に目を広げれば今でも存在する。
ミュージック・ライフは「ミーハー的」ではあったもののロックから外れたものを紹介してしまうほど「ミーハー」ではなかった。
だから洋楽ロックアイドルの終焉と一蓮托生で終焉を迎えてしまった。
意外にもロック的頑固さは持っていた、という訳だ。

第2章は「ニューミュージック・マガジン」。
その「変質したロック界」にいち早く対応し「ロックを語り始めた」雑誌として紹介される。
中村とうようのバックグラウンドなども語られるので、一時期ミュージック・マガジンが「ワールド・ミュージック・マガジン」なんて揶揄されていた理由も今になって分かる。
今更分かってもしようがないが、ネタ切れを迎えていたロック界がワールド・ミュージックに目を向けていたこともあり、このバックグラウンドがミュージック・マガジンの命脈をしばらく保つ事になる。

「ロックを語る」という行為は、海外でもグリル・マーカスなんて大物ロック・ジャーナリストが登場しているので、日本独自の現象ではないし、速報性がウリでなくなり始めたメディアがニュース解説、コラム、スクープといった付加価値で売るのは当然の流れ。

ただ、海外ではロックが巨大産業となりつつある中で「語る」という行為が登場したが、まだまだ小さく情報量も十分でない日本のロックマーケットではこのような雑誌が先行した事により「聴く」と「語る」と「情報を得る」がセットとして扱われる時代が訪れた。

筆者は「この三位一体が日本のロックを育てた」とこの雑誌を高く評価し、「語るべき音楽」が無くなってしまったから、この雑誌が以前のように生きる道はなくなってしまったと嘆く。こういう感想を抱くのは筆者本人が「主体的に(試聴なんぞして)音楽を漁る」という行為を止めてしまったからだろう。
当然語らなくても音楽は聴ける、という基本がどこか欠落している気もする。
語らない人は音楽に対するアンテナが鈍い、という事は有り得ない、

第3章はフォークリポート。
中村とうようの政治志向や、バックグラウンド人脈となる人材をフォローするためか、フォーク界の中心的レーベルURCレコードの広報誌が紹介される。
ここまでフォローしてしまうのは確かに大学教授、学究肌だな。
日本のフォークは結構評価が難しい。
その後の音楽界のキーマンとなる人材を発掘したが、彼等がフォークを選んだのは「エレキ楽器を買う金がなかったから」という理由が、この章の冒頭部分でも説明されている。
要するにやりたい音楽が別にあった人たちもフォークに「甘んじていた」わけで、彼等がそれなりの資金を得るようになると、フォークとは関係のない音楽を始めてしまった。要するにフォークは人材以外、後に続くものは生まなかった。
他の雑誌が媒体としての使命を終えたとはいえ今も続くロック、というかポップミュージック史の中で連続性を以て語れるのに対し、この雑誌は本当に「終わっている」。
歴史的資料として読むしかない章なので、あんまり興味のない人はとばしてもいいだろう。

第4章はロッキング・オン。
渋谷陽一は「メリットがないから」とインタビューを断ったそうだ。
高校時代の自分を騙してくれたレトリックを駆使した「ロック雑誌は死んでいない、なぜならば、、、」という反論を期待していたんだが。
とはいうものの、「中村とうようvs渋谷陽一」論争に関しては全然知らなかった。自分がロッキングオンの熱心な読者だった期間は思ったより短かったんだな。

そんな訳もあってか、筆者のロッキング・オンというか渋谷陽一に対する評価は、やや辛めのものとなっている。
この評価から、筆者本人が「ロックの商業化」について、冷静に語りながらも忸怩たるものを抱いているから、ということが透けて見える。
だから「渋谷陽一がロック雑誌で儲けてポルシェを買った」という事実に対して複雑な思いがあるのだろう。

サブカル紹介誌、という一面もあったミュージック・マガジンに対し、ロッキング・オンはロックに特化している雑誌だ。
また「評論家でない聴衆にロックを語らせる」ことを大フューチャーした雑誌でもある。
ミュージック・マガジンにしてみれば冷めた姿勢で臨んでいた「商業化したロック」クイーンやエアロスミスもロックであるが故に語るに足る、という態度で臨んだこの雑誌は要するに読者を裏切る、という事がなかった。
つまり「語るミュージック・ライフ」だったわけで、この辺は筆者も「ライフとマガジンの折衷」と指摘している。
筆者はヴァーチャル渋谷陽一を登場させ、この指摘に対して激しく反論させているが、実際の渋谷に聞けば「まあ、そういう部分もあったかな」とあっさりした回答が返ってきそうに思う。
ただ筆者は渋谷に激しく反論して欲しかったのだろう。

第5章は宝島。
先の2誌に対し「語る事を辞めた」雑誌として登場する。
時代が語る事に飽きていたからというわけだ。

この章の「宝島はインディーズレーベルシーンを確立し、支援した」という評価はちょっと分かりにくい。
宝島が行った活動は紹介しているが、記事の内容まではあまり紹介していないからだ。

リアルタイムで宝島読者だった自分が僭越ながら紹介すると、「ファッションはこう、メイクはこう、楽器はこれで、音楽はこんな感じ」という記事だった。
要するに「ロックバンドのマニュアル化」を行うことによる「支援」だった。

そしてバンドブームの終焉によってロック界を先導するロック雑誌は終息する。
ただ、今現在何らかのコラボレーションをすることなく雑誌単体で何らかのムーブメントを引き起こす事は有り得ない。
だから、ことさらロック雑誌に限ってパワーが無くなったと嘆く事もないのだが。

もちろん、ロックが時代を引っ張るという事が無くなったということも関係している。
70年代から20年くらい続いた「最先端のサブジャンル音楽を取り入れる事で最先端ではないが先端であり続ける」という手法も、流通の発達によってその音楽のオリジナルが手に入る今となっては通用しなくなってしまった。

ただ日本で「ロックで儲ける」ことが出来るようになったのはバンドブームが終わったあとだったと思う。
ブームの終焉を乗り越えた連中が、シングル、アルバム共にオリコンチャートの上位を独占する時代は90年代末になってから。
それまでもハウンド・ドッグや矢沢永吉、B'zが武道館を満杯にしていたが、ロックというジャンルとしての音楽がチャートを独占したのはあの時期が最初で最後だったと思う。
以降は日本でも海外と同じくポップミュージックのサブジャンルとして存続していく事になる。

そして第6章のロック・マガジン。
宝島を扱ったあと、筆者はメジャー化した日本のロックシーンを無視して「これ以降はムーブメントを引き起こした雑誌がないから」と、この関西のカルト誌の紹介に移る。

ロック史を紹介するのでなく「ロック雑誌を紹介する」ことがこの本の趣旨なのだからスタンスとしては間違っていないが、やはり筆者は「ロックで儲ける」という行為に対してなんらかの反発があるのだろう。

ロック・マガジンが目に見える形でムーブメントを引き起こしているのかいないのかは、実際にこの雑誌を手にした事のない自分としては分からないが、クラブミュージックはロック・マガジン元編集長・阿木譲が引っ張っている、という話は聞いた事がないので何とも微妙なところだ。
鈴木慶一は読者だったらしいが、ムーンライダースが後続に影響を与えたことってあったかなあ。
だから「資料的価値が勝る」という意味では、フォークリポートの章と似ている。
バックナンバーも全部載ってるし。
ただ阿木譲自身は終わっていない、という部分が相違点か。

バックナンバーが全て紹介されているが、これを見る限りロック・マガジンが「音楽情報誌としての最先端」だったのはパンク・ニューウェイブに限るようだ。
創刊号で「最先端だった」と紹介されているルー・リードは「ロックン・ロール・ハート」(Amazon.co.jp)というつまらないアルバムを発表して「NEW YORK」(Amazon.co.jp)までの雌伏期に入った辺りだったし、ジョン・ケイジを20年遅れで真似したインダストリアル系の悲しさは言うまでもない。
ただ地の利、と言えばいいのか時代が彼に味方した、と言えばいいのか、テクノポップ発祥の地・日本で初めて「テクノ・ポップ」という言葉を使った雑誌ということで世界で初めて「テクノポップ」という言葉を使ったという栄誉は彼のものとなる。

この雑誌は意識的にロックと現代思想を絡ませたらしく、その辺も筆者は評価しているが、その手の絡みには必ず「ウイリアム・S・バロウズ」の名前が出てきてしまう。実際、阿木譲も触発された時期があったらしい。
ただし、同じく現代思想を絡めたフールズメイトがデタラメな翻訳でバロウズを引用し、それに対して無茶な解釈を加えていた事実を山形浩生が指摘している。
阿木が触発された「バロウズ」はちゃんと翻訳されたものだろうか。

このころのバロウズは「訳分かんないから偉い、だから分かんない文章は偉い」の根拠として扱われていた節もあるので、変な言葉を使いたがる彼が「ちゃんとしたバロウズ」を読んでいたとは考えにくい。

ついでに言うと彼が「1980年代末は最先端だった」と語るアシッド・ハウスは、音楽業界に人脈のない単なる若造だった自分も普通に知っていたので、最先端って程でもなかった。

ただ筆者はその辺の事はもう分からないらしく、何も突っ込むことなくインタビューは終了してしまう。
真面目な人なんだろう。「カリスマ」の扱いは上手くないようだ。

そしてあとがきへ。
個人的にあとがきに期待したのは、著者が今現在どんな音楽を聴いているのか、という点。
しかし、そのような個人的事柄に触れることなく、近況報告だけで筆を置いてしまう。

寂しさを感じさせる書き方を見る限りでは、筆者は「漁るように音楽を聴く」という行為を止めてしまったのだと思う。
だから、この本は「かつての筆者自身」への墓碑銘であると共に、ある一定の年齢層、言い方を変えれば「音楽の好みが固まってしまった」人が郷愁を共有するために読むのにふさわしいもの、といえる。
世代で言うとビートルズ世代から「渋谷のタワーレコードで輸入盤を買うのが楽しみだった」世代までか。

従って「まだまだ、何でも聴いてやる」と音楽人生いつも前向きな人には用のないものだ。
もちろん「資料」としての価値は大いに認めるところだが。

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2005/02/20

こんなん出てますけど

山本昌邦指南録(Amazon.co.jp)

カスタマーレビューで早くもボロクソ言われている、山本監督の最新作。
トルシエというおもろいおっさんの観察記になっていた備忘録はなかなか面白かったが、山本監督本人の「見識」が記録本としての体裁を邪魔するので、ややうざかった。
その「見識」を全面的に押し出したのか、それとも単に「U-23の内幕暴露本」なのかは読んでみないと分からないが、1800円はちょっと高いかな。

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2004/12/10

リジー・ボーデン事件の真相

LIZZIE_BORDEN

20年以上昔、リジー・ボーデンと名乗るヘビメタバンドがいたが、今もいるんだろうか?

リジー・ボーデン事件に関してはこれ1冊で事足りる。後はいらない。

リジー・ボーデン事件とは、100年以上前のアメリカでオールドミスの、いわゆる「負け犬」の次女が父と養母を惨殺したが見事無罪になったという事件。
アメリカでは戯れ歌が人々の口の端に上るほど有名な事件らしいが、ピューリタニズム過ぎた19世紀のアメリカならともかく、現代の目で見れば特に驚くほどの事件ではなく、登場人物にも華がないうえ、謎解きとしての興味もない(ほぼ100%リジーの犯行)。

同時年代に起きたアルフレッド・パッカーの人肉嗜食事件に比べれば、わざわざ紹介する気も起きないような事件であり、実際、「鬼畜ブーム」の中でもほとんど取り上げられることはなく、コリン・ウイルソンや柳下毅一郎といった「いつもの面々」による断片、あるいは概要のみの紹介にとどまってきていた。

そんなブームも遠い昔の話となった今、突然この本が登場した。
もっとも著者、仁賀克雄にとっては突然ではないそうで、ロバート・ブロックの短編「斧を握ったリジー・ボーデンは」を翻訳した時に興味を持ち、その後こつこつと資料を集めていって、とうとう一冊の書籍にまとめるまでに至ったのだという。

その年月40年以上。
これだけの年月をかけただけあり、事実関係の記述に曖昧なものはない。
それ故にリジー自身の供述の曖昧さが際だつ。
途中まではあまり賢いとは言えない彼女が徐々に追いつめられていく様が描かれており、一種の推理ものを読む楽しみを味わえる。
このあたりの描写はミステリーを多く翻訳している著者ならでは。

ところが事実は小説ではない。後半の裁判に入ると追求は腰砕け。
検察官はハンカチにどうやってアイロンをかけたとか、本筋と関係のないことに変なこだわりを見せ、リジー自身も事件直後と異なり、冷静さを失わずにピントのずれた質問に答え続けた挙げ句、無罪を勝ち取る。

この事件が後世に残った理由としては、当時は珍しかった「動機のない殺人」であったことと、リジー自身が罪悪感というものを全く感じなかったらしい、という点で、この2つが古くさい背景を持つこの事件にモダンな彩りを加えている。
この手の犯罪者は最近では珍しくなくなってしまったが、それが非常に単純化された100年前のモデルケースがこれ。
背景だけは2時間ドラマでよく見かけるが、あちらの「湿り気」はどうも性に合わない、という人が読むと面白いかも。

ところで、コリン・ウイルソンはリジー事件が後世に残った理由として「アメリカ人にとっての回顧アイテムとなったから」と書いている。

そういう意味では切り裂きジャックに似た存在といえるだろう。

切り裂きジャックは単なる連続殺人鬼という存在にとどまらず、ガス灯に煙るヴィクトリア朝の記念碑であり、その時代を回顧するためには欠かせないアイテムとなっている。
アメリカにおけるそんな存在がリジーであり、「回顧アイテム」ということでは、ほぼ同時代のキャラクターである「トム・ソーヤーの暗黒版」といえるだろう。
そういえばこの2人、年齢も近いんじゃないだろうか。

ただ、スタイリッシュなヴィクトリア朝のロンドンと違い、100年前の蒸し暑いピルグリム・ファーザーの地に思い入れを持てるのはアメリカ人くらいだろう。
リジー・ボーデンがアメリカ限定の有名犯罪者であり続けたという理由は、こんなところにあるのかも知れない。

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