2016/05/07

「北の国から」

連休中に日本映画専門チャンネルで特集放映していたのをたまたま見かけた嫁がハマって、「北の国から」連続鑑賞にひたすら付き合う今日この頃
このチャンネルでこの特集が始まった時は、また誰か死んだのか、と一瞬思った。

このドラマは今見返すと、物質文明に戦いを挑む救世主・黒板五郎の福音書なんだなあ。

だからイエス・キリストであるところの五郎には次々と厄災が降りかかる。
彼だけでなく彼の支持者にも順番に試練が降りかかる。
悪人は、自らが悪を成していると理解していないので地獄に落ちるだけで現世で天罰は下らないが、五郎を理解したうえで裏切るものには天罰が下る。
東京はバビロンで北海道は約束の地
最終回"遺言"はハルマゲドン的に始まり、五郎の言葉で終わるという黙示録的構成

具体的にどれがどの聖書のエピソードに当たるってわけじゃないが、倉本聰はキリスト教徒の家庭に育ったそうだし、ドラマ中にキリスト教のイメージがところどころに登場するところからも、そう思う。

ところで、“遺言”では、柳葉敏郎演じるグリーンエネルギー支持者をカリカチェア的に描いているので、倉本聰はこの辺りで現実のエコ論者に失望したのかもと思ったが、その後の活動を見るとそんなこともなかったのか。

2015/07/19

北野武を嫌う監督(推測)

一部の映画ファンにとっては山田洋次が「巨匠」と呼ばれるのは違和感があると思う。
代表作が「男はつらいよ」というだけで、それは巨匠とはちょっと違うのでは、という感覚に襲われる。

「日本映画の巨匠」と言えば思いつくのは黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男、溝口健二、鈴木清順といった面々で、それぞれスタイルは全く異なるが、いずれも表現者として世界を唸らせ、その表現は今でも陳腐化していない。普遍的な意味での「名作」を次々と産んだ。
山田洋次が世界を唸らせたことはない。
「たそがれ清兵衛」はベルリン映画祭に参加しているはずだが「参加した」以上の何かが残ったわけでもない。北野武がフランスやイタリアで愛され、是枝裕和がカンヌに出品すると必ず高い評価を得るという状況下で、山田洋次を「日本を代表する巨匠」と呼ぶのは明らかにおかしな話ではある。

さて、では山田洋次は「日本国内限定の巨匠」なのか。深作欣二、石井輝男、工藤栄一、中川信夫、岡本喜八といった面々のように、たまたま国際マーケットに打って出られなかっただけなのか。

それも違う。
自分は様々なしがらみから、山田洋次作品中、ハナ肇に気に入られていた頃の「馬鹿」シリーズ、男はつらいよシリーズ、メガホンは取っていないが脚本家として参加している「釣りバカ日誌」シリーズ、そのうえ「たそがれ清兵衛」まで観てしまった。で、断言できる。
山田洋次は巨匠ではない。

「男はつらいよ」シリーズを観ると分かるのは、印象的なショットやシーンを忍び込ませることをしないという点。渥美清が嫌がることはさせられない、という制約が多いシリーズであるが、後の巨匠はそういう制約下でも何かしら爪痕を残すものだ。しかし、彼はフォーマットに沿った物語を淡々と撮るだけ。

さらに、役者から新しい一面を引き出すということがない。彼の映画に出演した役者の話を読むと演技指導はするらしいが、結果を見ると「世間のイメージどおりでいい」という方向に導いているようである。となれば役者も「表現」ではなく「仕事」としての演技を披露して終わりだ。
彼の映画に名前が大きく出た伸びかけの若手俳優が、その後大成したという話は聞いたことが無いが、「有名な監督が今までと一緒でいい、というからいいんだろう」と勘違いして伸びるチャンスを失ったのかも知れない。彼の映画に出る若手は「若手と言われているが俳優としての立場を確立している」という状況でないと危ない。

「男はつらいよ」から離れても、この辺りは変わらない。登場人物は自分の感情や状況を台詞で説明し「観なければ分からないショット」という映画ならではの贅沢な撮り方はしない。キャストはタイプキャストであり、クリシェを演じ続ける。これは映画じゃない。テレビドラマだ。そうでなければ映画がテレビだった時代の娯楽映画の末裔だ。

「映像化するために非常に苦労した」と語るたそがれ清兵衛の「苦労」は藤沢周平が舞台とした時代の地域の資料が少なかったから、ということらしいが、表現者としては苦労するポイントを間違えている。出来上がった映画は「貧乏くさい時代劇」で、登場した俳優も「これまで演じてきたような演技」を少し力を入れて披露しているくらいだった。

つまり、この人はテレビディレクターなのだ。北野武が侮蔑的に使う「職業映画監督」の頂点であり、表現として映画を選び取った訳では無い。だから、仕事として演出をしている。「伝わればいい」以上の表現は行わない。

演出というのは教わることが出来る。そうでなければ映像産業は成り立たない。その演出技術をツールとして、自分の表現したいことを映像化するのが表現者であり、それで多くの人を唸らせることができて初めて「巨匠」への切符を掴む。そして、その表現が時を経ても陳腐化せず、普遍的なものとして評価されて初めて「巨匠」へと成り上がる。

才気煥発な松竹の先輩たち(大島渚、篠田正浩、吉田喜重)たちは、様々な表現に挑戦して浮き沈みの激しい監督人生を送り、その代償として「巨匠」と呼ばれてもおかしくない地位を得た。
山田洋次はそうしなかった。おそらく出来なかった。仕事として演出し、後年になって見てみるとことごとく陳腐化してゆく商品を大量に生産した。
彼は脚本も手がけるが、その内容は過去の肯定だ。
娯楽作品としては正解ともいえるが、それ故に時代の流れによって確実に陳腐化する価値観を肯定することになる。意地悪な見方をすると「貧乏人は貧乏なまま死んでゆくのが正しい」「知的障害者は差別されたまま終わる(馬鹿シリーズ)」という内容で、見る人が見れば気分が悪くなる。経年による陳腐化に拍車をかける。

彼はこれ以外の映画は撮れないのだろう。ただ、彼自身は「自分は巨匠じゃない」という自覚はあると思う。
だからますますクリシェと過去の価値観の肯定に傾いていくわけだ。

ただ、本人は心得ているだけに北野武を嫌っているだろうなあ。
「男はつらいよ」の笑いを決定的に古いものにし、「最も有名な浅草芸人」という地位を渥美清から奪い、映画監督として世界的に高い評価を得、尊敬する黒澤明から認められる、という本人が得られなかったものを全て手に入れてしまったうえに、「娯楽映画も撮れるよ」ということも最近証明してしまったもんなあ。

2013/02/25

ソナチネ

どこかのブログで「この映画の登場人物は全て子供のままだ」と評論されていたが、まさしくそのとおりで、批評としてはこれ以上書くことは無い。

このブログ:
http://blog.livedoor.jp/koredakecinema/archives/4255597.html

ただ、書きたいので、気付いたところをぐだぐだと書いてみる。

ストーリーは破綻している、というよりも端折りすぎて不自然になっていると言うべきか。一々挙げていくと、
たけし自身が劇中で言っていたように、たけしの留守中にたけしの組の面倒を見るのはナンバー2(大杉漣)であるべきなのに、なぜかナンバー2もナンバー3(寺島進)も抗争援軍旅行に同行してしまう。
敵が派遣するヒットマンが1人だけ。たけしの隠れ家が判明した後も1人でちょっとずつ処理していくが、隠れ家が判明した時点で大勢で夜中に出かけていって襲えばいいのでは?
たけしが助けに来た組はほぼ全滅状態になり、たけしの部下は3人くらいになってしまうのに、敵役が滞在するホテルはすんなり見つけてしまう、、、等々

一番目立つ瑕疵と言えば、たけしと敵役がエレベーターの中で一般人巻き添えの発砲事件を起こしてしまってからクライマックスまでのストーリー。

現実的に考えれば、発砲事件後は何が起こるか。
1 町中戒厳令状態
2 やくざは全てボディチェックの対象
3 死体から関係する組が判明し、警察は血眼でたけしを追い始める。

にも関わらず、その発砲事件から日数を経ていない時期に、その発砲事件に深く関与しているやくざがパーティを開催してしまう。普通に考えてそんなことあるわけがない。万が一開催されても、会場を二重三重に機動隊が取り囲む形になるだろう。

こう考えていくと、とてもじゃないが、そのパーティにたけしがマシンガンをぶら下げて乗り込んでいくというしびれるクライマックスは実現するはずがない。

他にも挙げていくとキリが無いが、にもかかわらずこの映画には圧倒的なリアリティがある。

おそらく、たけしはこれまで挙げたような瑕疵は十分分かった上で確信犯的に「こっちの方がしびれるから」というストーリーの流れを選び取っている。
これは、アウトレイジ・ビヨンドに関するたけしの発言から判断できる。それは、
「やくざだってあんなにポンポン人は殺せないんだよ。普通は警察が動くんだから。でもそこは目をつむった」
というもので、おそらくソナチネも同じ考えでストーリーを構築していったんだろう。要するに「現実は面倒くさい」ということを分かった上で話を端折っているわけで、これは単なる下手とは違う。

そしてもう一つ。やくざの描写がほぼ正解であるという点。自分は偶然、やくざの内情を非常によく知る人物と親しくなったが、この人は前半、沖縄やくざの勝村政信が援軍のたけしたちに向かって、
「飲み物とアイスクリームがありますんで、欲しければ言ってください」
と呼びかけるシーンに妙に感心していた。
「そうそう。栗まんじゅうとか用意したりね」
とか言って。

ほぼ正解の細かいディテールを積み重ねていってストーリーは確信犯的に飛躍させる。この2つが相まってこの映画の「映画的なリアル」を支えているのだと思う。
そういう意味では教科書的な「よく出来た」映画。
この映画はロンドンで上映されて評判を呼んだそうで、さらにフォーマットがそのまま外資系の「BROTHER」に繋がったりしているが、それはすなわちこの映画が「よく出来た映画」の世界標準に準拠しているからなんだろう。

たけしはこの映画に関して「好き勝手に撮った」と言っているが、自由気ままに撮って教科書的な映画ができあがるのだから、この人は映画を撮るために生まれてきた、と言っても過言ではないのだな。

2011/10/29

その男凶暴につき

この映画で演劇的な要素を担うのは脚本だけ。「組織に見放された狂犬同士の決闘」というラストがきちんと用意されている。
しかし、そのラストに向かうまでの描写は、

爽快感のないリアリスティックな暴力
次のシーンへ移る、或いは移る直前までをわざわざ映すことによるゆったりとしたテンポ

というHANA-BIまでの北野映画を特徴付ける抑えたスタイルによって成り立っている。

このようなスタイルがデビュー作から顕在化しているのは、おそらく、たけしの突っ込み気質や報道で耳にするシャイな性格が、自分が監督する映画に気恥ずかしい「映画的リアリズム」の導入を許さなかっためだと思われる。
例えば、途中で容疑者と刑事が殴り合いをするシーンにしても、殴り合いと言うよりもみ合いで、その前のシーンで「映画風」なアクションを試みた刑事はあっさりと殴り倒されている。
結局、演劇的な派手な殴り合いなんて町中ではまず見られないわけで、だからアクション映画が商売になるわけだが、たけしにしてみれば嘘くさいシーンにしか見えなかったのだろう。

「映画的な暴力が乏しい暴力映画」といえば一足先に松田優作が「野獣死すべし」と「ア・ホーマンス」で試みている。残念ながら彼にはその描写を洗練させるだけの時間が無かった。
映画的でない暴力映画の先達として「フィルムノワール」が存在することを考えれば、たけしが松田優作の後を引き継いだのは偶然だったのかも知れないが、「バタ臭くない和製フィルムノワール」が誕生するにはたけし自身の資質が必要だったとは思う。

その男、凶暴につき(Wikipedia)

と、ここまで書いて「その男、凶暴につき」をぐぐってみたら、素晴らしい評論を見つけたので、この辺で書くのは止めようと思ったりする。

浮気なシネ漫歩

ところで、この映画に出演していた主要な俳優のうち、佐野史郎だけは今のところその後の北野映画に全く登場していない。
北野武がインタビューで「演出に注文を付ける俳優は二度と使わない」とよく言っているが、その第一号が彼だったのかな。

2011/09/20

時代に即しすぎて悲しい映画

嫁さんの趣味で森田芳光の「家族ゲーム」を久々に見たが、演出が古臭いのに驚いた。
松田優作の新境地がメジャーになった映画として記憶されるべき映画なので、演出が古臭いと感じてしまうのは彼のファンとして困るんだが、残念ながら40始めの人間にしてみると話題になってしまったが故に、フォロワーにしゃぶり尽くされたこの映画の「間」と「外し」がひたすら恥ずかしい。

ただ、「それから」を撮った後に「俺との仕事がしんどくてとんねるずに逃げやがった」と松田優作に冗談めかして非難されていた森田監督のその後を思うと、自らのスタイルと突き詰めるほど演出的体力は無かった人なんだろう。

もっとも、自分のスタイルを緻密に構築し続ける贅沢が許されて且つ「演出的体力」がある日本人監督って北野武しかいないか。20世紀末から21世紀初頭にかけては。

2011/07/03

板尾で笑ったら罰ゲームか?

電人ザボーガー公式サイト

何気にMXテレビを見ていたら、電人ザボーガーの再放送が流れた。それはよくある話なんだが、放映後に映画の宣伝が。
板尾創路主演で「ザボーガーのその後」を描いた映画が作られたそうで。再放送は公開タイアップ企画だとか。
日本の特撮ヒーローのメジャーどころはウルトラマンにしろ仮面ライダーにしろ、子供向けシリーズとしては現役故に営業に悪影響が及びそうな「悲惨な老後」を描くのは多分タブーだろう。
それにあんなに「兄弟」がいれば孤独な老後なんてことはないだろうし。
そんなわけで、「ゼブラーマン」みたいなオリジナルヒーローでなければ日本で「ダークナイト・リターンズ」が出来ることはないだろうな、と思っていたら、条件に合うヒーローが掘り起こされてしまった。
しかし板尾創路という人選はかなりのハイセンスだよなあ。

2011/01/03

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
自分もネコも寝正月な元旦でした。

20110101_cat_2

2010/12/13

40年遅れの一発屋

「人間」ヒトラーと向き合うドイツ(NewsWeek)

Philippe Mora(Wikipedia)

ビデオ・バブル時代に「クズ映画の監督」として名を馳せたフィリップ・モラが意外なジャンルから意外な形で復活。また名前を聞くとは思わなかった。しかも、こんな真面目な記事で。彼の名前を聞いたのは10年ぶりくらいかも知れない。

90年代に入っても映画仕事はしていたから業界的には手に負えないほど下手な監督というわけでもなかったらしいが、それが災いしたのかどの作品もNewsWeekが言うほど「カルト」ではない。クズではあったが映画史的に「汚点」となるほど強烈なものはない。要するに単なる「出来の悪い映画」なので、本来ならばその他大勢の職人監督と共にアナログフィルムと同じくらいの速度で消えていくはずだった。が、大逆転。

彼に関して誰もが首を傾げたのは「クズ映画ばかり作るのにスタッフや俳優はいつも一流どころ」という点で、逆に言うとウリはそれだけだったが、キャリア前史でどんな俳優よりも名を馳せた人物を扱った経験が、、、関係ないか。それよりも、1973年の段階でカンヌ映画祭に参加していたから、その辺りから人脈を作り始めていたってことなんでしょうな。

この映画が引き起こした騒動を読むと、彼のフィルモグラフィーやバイオグラフィーに食指が以前よりは動くが、「ハウリング」シリーズのことを考えるとその調査にあんまり労力を費やす気は起きない。
試しにWikipedia英語版で彼の名前を検索してみたら見つかったが、おそらく彼の名前を、その他の作品を知る者としては不本意ながら映画史に刻んでしまうであろうこの映画のことは載っていない。しかも、映画監督のテンプレにも従っていないので大変に読み辛い。そのうえアマチュア時代のフィルモグラフィーや家族のことばかり詳しいという妙なバランスで成立している。ひょっとしたら本人が書いたんじゃないか?

2010/10/11

いまさらサシャ・バロン・コーエン

故あって「ボラット」(Wikipedia)と「ブルーノ」(Wikipedia)の両方を立て続けに見ることになったが、作品としてはボラットの方が普通に笑える。
理由は簡単で、ボラットの方が伝統的な「カルチャーギャップを笑う」というコメディの文法に則っていて、ブルーノは命がけの嫌がらせを撮影することに主眼を置いているからだと思う。

ボラットは「モキュメンタリー」(Wikipedia)という言葉から連想される「どっきりカメラっぽいことをして素人が驚くところを撮って笑わせる」というイメージとは裏腹に、かなり細かいところまで気を遣って製作されている。

冒頭部分で部屋の中でカメラがパンすると牛が映って驚かされたり、自動車を馬が引いていたり、夫が乗った荷車を妻が引っ張っている場面を村の風景にさりげなく映し込んで仮想カザフスタンの男尊女卑をアピールしたり、ニューヨークのユーモア講師に教わったギャグがラストに出てきたり、途中でどうやってカリフォルニアに行くのかと思わせておきながら意外な方法で辿り着いたり、相棒のアザマットが冷蔵庫を開けるといつの間にかいなくなっていた熊の首が一瞬映ったりと、伏線と思わせない伏線をきれいに回収していく。
さらに途中でボラットがアメリカの住民と交わす会話は「男尊女卑と差別主義が蔓延っていて野蛮」という設定の仮想カザフスタンと「先進国」であるはずアメリカの住民に大した差はなく「先進国」の人たちはパーティジョークやテーブルマナーで単に上辺をごまかしているだけ、という批評が自然に成り立つように構成されている。
加えて、本来行くはずじゃなかったカリフォルニアに向かう、という設定を入れたことで「水曜どうでしょう」を思い出させるバディムービー的な「くだらない仲間同士のやりとり」で笑わせる場面もうまく混ぜ込んでしまう。
要するにジャンル横断的なコメディとして成立させてしまっているので、サシャ・バロン・コーエンのコメディに対する懐の深さが実感でき、だから面白い。

だから「どっきりカメラの面白さ」を期待してボラットを見るとおそらく外すんだけど、この映画の一要素に過ぎなかったフェイクドキュメンタリー部分が評判になりすぎて、続く「ブルーノ」の内容を制限してしまった感じはする。

ブルーノはひたすら「過激などっきりカメラ」であり続ける。問題は「素人を驚かせたり怒らせたりするには嫌がらせをすればいい」というこの手のギャグ特有の「沸点の低さ」で、結果的に「やってることは凄いんだけど、どれも似たようなもので映画としては単調」という労力に見合わない仕上がりになってしまう。
ハシディズム派の服装(ユダヤ教というと思い出す黒い服)をノースリーブと短パンにアレンジして歩き回って追いかけられたり、アメリカ南部の真っ直中で開催されたバーリ・トゥードの金網の中で男と乳繰り合いをしたりするギャグは確かに命がけで凄いんだが、ブルーノがそういう場面に登場した時点で「こうなるな」という予測は出来る。

結論としてはボラットの方が面白い。ボラットはDVDを購入してもいいが、ブルーノはレンタルでいいや、という感じか。
ついでにいうとBOX Officeによればブルーノボラットの3倍近い制作費をかけながら興行的にはボラットの方が成功している。「ゲイムービーは見たくない」という客も多いからではあるんだろうが、やっぱり「ドキュメンタリーの形を取ったコメディ」と「コメディタッチのドキュメンタリー」の差もあるんじゃないだろうか。嫌がらせみたいなドキュメンタリーの方が支持されるのであれば、野呂圭介は未だにスターでいるはずだしね。

2010/06/01

真似の出来ない経歴

そういえばイージーライダーではデニス・ホッパー演じるビリーは死んでいない(ように見える)。
なるほど、おそらく怪我をしてバイクに乗れなくなって川縁に住み着いた彼のその後を描いたのが「リバースエッジ」だったのか。だから足を引きずっているんだなあ。
で、更に時代は下って人類滅亡に乗じて男の夢を実現したのが「ランド・オブ・ザ・デッド」だったわけね。

ゲーム界にも輪廻転生してたよなあ、クッパ大王。そのうえ全米1位の映画を監督してたりする(カラーズ)。こうしてみるとやはり偉大すぎる経歴だ。オーソン・ウェルズと双璧くらい。

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