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2016/07/03

スティーヴ・マッケイ バイオグラフィー(5)

今回は再結成ストゥージズへの参加とロン・アシュトンとの確執

2001年、ロン・アシュトンは元ダイナソーJr(今は現ダイナソーJr)のJ.マスキスが組んだユニット、J.マスキス&The Fogのツアーにパートタイムで参加して、主にストゥージズトリビュートのパートで共演することになった際、マッケイにサンフランシスコでの共演を打診した。
これを承諾したマッケイは、サンフランシスコのGreat American Music Hallのステージに上がり、ロン・アシュトンと30年ぶりに”Fun House”と”1970”を演奏した。

Radon勢と共演していたこともあってか、マッケイの腕は冴えていたようで、出来に満足したロン・アシュトンは「何かが起こるからな」とストゥージズ再結成をマッケイにほのめかして別れた。
この言葉はマッケイにとってこのライブ最大の収穫と言えたかも知れないが、もう1つ、マイク・ワットとの友情も手に入れた。
ワットとマッケイは非常に馬が合ったようで、ストゥージズのツアー中も暇さえあればつるんでいたそうだ。

しかし、ロンは何かが起こるとは言ってくれたが、いつ起こるかは明言しなかったので、マッケイはそのままRadon勢との交流を深めることになる。

前回登場したサンフランシスコのラジオ局、KFJCへの出演を続けるとともに、Radon勢の一員Koonda Holaaが経営するスタジオTrack Brak Studioやそこから持ち出した機材を使ってのレコーディングセッションを続けてバンドとしての体裁を整えていき、2002年に初のソロ名義のライブをThe Jasmine Treeというチャイニーズレストランで開催して、これを成功させる。このライブで「Little Beirut Ensemble」と名乗ってバックを務めたバンドが、その後、マッケイのセッションを支える「The Radon Ensembles」の母体になる。ちなみにこのライブの模様ははマッケイの2ndソロアルバム「Michigan and Arcturus」に収録されている。

しかし、2003年、Radonとの蜜月は一時的に中断される。
ご存知のとおり、再結成ストゥージズに参加することになったからだ。

月日は明言されていないが、2003年の始めの頃、イギーからマッケイに連絡が入り、2003年4月27日に開催されるコーチェラ・ヴァレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバルに登場する再結成ストゥージへの参加を打診された。参加を承諾した後、イギーからの「リハーサルは必要か?」という質問に、マッケイは33年前と同じように答えた「要らないよ」

こうしてマッケイは、大親友マイク・ワットも無事参加した再結成ストゥージズの一員としてコーチュラフェスの大舞台に上り、音楽業界のメジャーシーンに復帰する。

このとき「コーチュラ限り」と言っていた再結成ストゥージズが、実はパーマネントな活動とすることでメンバーが合意していたことは歴史が証明しているが、2003年時点ですぐにはそうならず、ストゥージズのメンバーはイギー名義のライブや「Skull Ring」のプロモーションに散発的に登場するに留まっていた。

とはいうものの、今後はストゥージズがマッケイの音楽活動の大半を抑えることになるということが分かっていたからか、マッケイとニーデガーはこれまでの仕事を形にするべく総括を開始する。

まず、Radonと同じくポートランドを活動拠点とするLAFMSの中心的バンド、Smegmaに渡りを付け、2003年7月に彼らのスタジオでマッケイを前面に出した音源"Thirty years of service”のレコーディングを行う。(発売は2004年)

https://www.discogs.com/ja/Smegma-with-Steve-MacKay-Thirty-Years-Of-Service/release/819006

これはどちらかと言えばLAFMSのフォロワーだったニーデガーが一度はやりたかった企画だろう。

続けてニーデガーは、KFJC及びTrack Brack StudioでのレコーディングセッションとThe Jasmine Treeで行われたライブといった音源を抱えて、当時生活していたポルトガルのポルトに帰り、編集とミックスダウン作業を開始する。
この作業は、"Michigan and Arcturus”のライナーに依れば、2003年9月には終わっている。
ところが、配給に至るまでの経費が出なかったのか、誰かが何かをしくじったのか、インディーレーベルなんて所詮そんなもんなのか、とにかく理由は明確でないまま、マッケイ初のソロアルバムは2006年まで発売されなかった。

明けて2004年、前年中はまだ電気技師を続けていたマッケイはいよいよ本格始動した再結成ストゥージズに専念する。実際、2006年までのストゥージズ以外の仕事はRadon勢、Smegma、ヴァイオレント・ファムズとの単発ライブセッションくらいしか確認できない。
ちなみにSmegmaとのライブセッションの際に元デッド・ケネディーズのジェロ・ビアフラと知り合ったらしい。具体的な仕事には繋がっていないが、親交は結んでいたようだ。

その時期、マッケイは自身のソロアルバムに関してニーデガーに一任していたのか、進捗状況を日々確認していたのかどうかは分からない。ただ、ストゥージズは2006年の7月22日にポルトガルでライブをしているので、この時にマッケイがニーデガーと会ってソロアルバムの経費含め何らかの整理をした可能性はある。
なぜならば、そこから2ヶ月も経たない9月10日にアナログ盤限定の“Tunnel Dinner”が発売され、その2週間後の9月26日に"Michigan and Arcturus”が発売されるという、それまでの3年間はなんだったんだ、と突っ込みたくなるような音源一括放出が実現したからだ。

このあたりでマッケイとニーデガーの関係に多少の変化があったらしい。
元々、マッケイが最初にRadonからリリースしたアルバム"En Voyage"も経費はマッケイ持ちだったし、その後のセッションもKFJC関係を除けばマッケイが経費を負担していたと推測されるが、このソロアルバム以降はRadon全体の活動経費が、ほぼマッケイ持ちになったようだ。
そう考えられるのは、まず、2006年以降のRadonが基本的にマッケイ絡みのアルバム以外発売しなくなってしまうという点と、それに加えて先のSmegmaの"Thirty years of Service..."が"Michigan and Arcturus"と同日に再発されているという点。(アマゾンで確認できる)
これは自身以外のアルバム経費もマッケイが負担したからだろう。ここからも「Radonの活動経費=マッケイのポケットマネー」という状態だったことが伺える。

事実、ニーデガーのインタビューが掲載されている媒体や、ニーデガーのパートナーだったポール・ビーチャム(現イタリア在住)が書いたマッケイへの追悼文には「RadonのFounderはマッケイ」と書かれている。
ニーデガーはRadonの創設者という自負があったのか、マッケイを「Co-Founder」と呼んでいるが、周囲から見るとRadonの統括者はマッケイという認識になっていたようだ。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=906856759367456&set=a.146583872061419.36229.100001294227881&type=3&theater
http://radonbooking.wix.com/beyondobea#!beyond-obea/cdq7

話を戻して、1stと2ndのソロアルバムが立て続けに発売されたものの、マッケイはそれに関して語る間もなく2006年10月、再結成ストゥージズの新譜"The Weirdness”のレコーディングに参加する、、、筈だった。
このレコーディングでは秘密主義が貫かれ、マイク・ワットが「ブログでレコーディング風景を日々お知らせしていたら怒られちゃいました」事件を引き起こしているが、マッケイもその被害を受ける。

フロリダで実施されていたレコーディングにマッケイは呼ばれず、やっと呼ばれた場所はシカゴ。
シカゴ空港に辿り着いたマッケイは、レコーディング場所に向かう最中に初めて音入れを予定された音源を聞かされ、1日半のあいだに4曲レコーディングした。
マッケイ曰く
「レコーディングについて色々アイデアは持っていたんだが、ロンに閉め出されてしまってね。ロンはパラノイアみたいになっていて、とにかくレコーディング内容について何も知られたくない、っていう感じだった。」
「Fun Houseはライブでの彼らの良さを活かしたアルバムになっていたが、あれはそうじゃない。曲は悪くないと思っているが、もっとライブで演奏して磨き上げてからレコーディングすべきだった」
「イギーとはこのことについて話したが、『君は本当にアルバムを聴いているのか?』と言われただけだった。彼も分かっていたとは思うが」
「でもまあ、(そういう状況にもかかわらず)スティーヴ・アルビニはいい仕事をしたと思うよ」
ちなみにこのアルバムでのマッケイのお気に入りは"My Idea of Fun”と"”She Took My Money”の2曲だそうだ。

更に、再結成ストゥージズのライブではライブの半分くらいは暇だったと語っている。
マッケイ曰く
「最初は2曲だけしか参加できなかったけれど、徐々に曲を増やしてはくれた。でも、やっぱりライブの半分はステージの袖にいたよ」

ロンを擁護するとすれば、ストゥージズのワールドツアーが終わるか終わらないかの時期に突然ソロアルバムを発表したマッケイに対して「ストゥージズに集中するつもりはないのか」と思ったのかも知れない。

そんな不満が積もったことに加え、ライブ自体が半分くらい何もしないせいで体力的に余裕もあったのか、マッケイはRadon勢との交流を再び深めていくことになる。今回はマイク・ワットと潤沢な資金も引き連れて。

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