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2016/07/05

スティーヴ・マッケイ バイオグラフィー(6)

今回は、ソロ活動への傾倒とジェイムズ・ウイリアムソンとの出会い

ロンとの確執によって”The Weirdness”のレコーディングから閉め出されたマッケイは、3rdソロアルバムに向けての活動を開始した。
マッケイのスケジュール上、長期間に渡ってあちこちで行われたレコーディングセッションをまとめる、という作り方は前2作と一緒だが、こちらは明確に「ソロアルバムを作る」ことを目的としたレコーディングセッションであり、どうなるか見えていなかったという前2作とは製作過程が大きく異なる。

マッケイはアルバムのために曲を書き、ストゥージズのツアースケジュールによってはツアー先で人とスタジオを手配し、録音した。例えばダブリンでライブを行った2008年6月にはESTELの面々とレコーディングし、フランス&モナコツアーが行われた2010年7月にはモナコに近いフランスのエズという村で録音している。

プロデューサーは前作でも使用したTrack Brack Studioの経営者、Koonda Holaaのリーダー、カミルスキーとこれもRadon Ensembleの中心人物で、ポルトガルでのレコーディング作業にも参加していたらしいジョナタン・サルダーニャに頼んでいる。
2人ともボヘミアンのニーデガーよりも音楽活動のベースがしっかりしている人物。ぐぐるとすぐその活動状況が確認できる。
ニーデガーは基本的にその人脈を利用して人とスタジオの手配を手伝うという仕事を担っていたようで、エグゼクティブ・プロデューサーという肩書きはもらっているが、音楽的には特に仕事はしていない。
ライナーに依れば曲の選択もマッケイがツアーの合間を縫って行ったそうで、2010年7月に一通りのセッションを終わらせると、ほとんど間を空けずに2010年8月2日、3rdソロアルバム”Sometimes like This I talk”がリリースされる。

またソロアルバムのレコーディングだけでなく、ニューヨークのインプロビゼーションバンド、The Blue Prostitutesとは2007年にレコーディングセッションを行い、こちらはダウンロード販売されている。

http://muteantsoundsnetlabel.bandcamp.com/album/blue-prostitutes-w-steve-mackay

そして翌2008年のどこかで冒頭に紹介したジャーヴィス・コッカーの2ndソロアルバム”Further Complications”の #6 “Homewrecker !”に参加している。

https://en.wikipedia.org/wiki/Further_Complications

プロデューサーが"The Weirdness“と同じスティーヴ・アルビニなので、その人脈で紹介されたのかも知れない。

さらに2009年にはマイク・ワットと共に、旧友マーク・ランパートを連れてCarnal Kitchenの40周年記念ライブを敢行し、こちらもアルバムが発売されている。

https://www.discogs.com/ja/Steve-Mackay-North-Beach-Jazz-Carnal-Kitchen-40th-Anniversary-Sessions/master/774625

同じ2009年には”Sometimes like This I talk”の#9 “Lament for the Leaving of the Isle of Lewis"で共演したアイルランドのノイズ・インストゥルメンタルバンド、ESTELのアルバムに参加する。ESTELとはマイク・ワットの紹介で知り合ったらしい。
このアルバムは比較的手に入りやすくiTunesでも見ることができるが、「Untitled」というのは便宜上そう呼んでいるだけで、正式名称は「STEVE MACKAY / MIKE WATT / ESTEL – VOLUME 1」となるようだ。

https://cultofestel.wordpress.com/discography/

また、ストゥージズの2010年フランスツアーの翌月に、マイク・ワットと共に彼らのアイルランドツアーに同行している。
そして同年の11月と12月にはThe Radon Ensemblesの面々とワールドツアーを敢行と怒濤の課外授業釣瓶打ち。ちなみにGetty Imagesのマッケイの写真はこのときの写真が多い。

しかし、そんな風に熱心にストゥージズ課外授業を続けていたマッケイに転機が訪れる。
時期は戻るが、ご存じのとおり2009年にロン・アシュトンが急死してしまったことが原因

ストゥージズを続行するかの決断はイギーに一任されていたようだが、程なくしてイギーはジェイムズ・ウイリアムソンを呼び戻すことに決める。
イギーがウイリアムソンを呼び戻すか確定していなかった時期にマッケイは連絡をもらっていたようだが、驚くのはそのあと。ウイリアムソンからマッケイに直接連絡が入り、お互いがカリフォルニア州在住で、マッケイがパシフィカ、ウイリアムソンがサンノゼと比較的近所に住んでいることが分かると「練習代わりのライブに参加してくれないか」と打診されたそうだ。
マッケイは快諾し、ウイリアムソンと彼と付き合いのあったバンドThe Careless Heartsとのライブに参加する。これは音源が残っている。

http://www.allmusic.com/album/james-williamson-with-the-careless-hearts-mw0001994226

このライブが終わるとマッケイの自宅までウイリアムソンがクルマで送っていったという。ウイリアムソンの気さくな人柄が感じられる。
このライブでお互いの演奏に満足したところで、正式にウイリアムソンの復帰が決定し、2009年にサンパウロでストゥージズは再始動する。

新たにバンドマスターとなったウイリアムソンは、”Kill City”からサックスが全面的に参加する"Beyond the Law"という曲を新たにセットリストに加えるとともに、サックスがリードを取る曲でなくてもサックスにリズムを刻ませるというアレンジを加えることで、マッケイをストゥージズのステージに最初から最後まで立ち続けるというメンバーに昇格させた。
実際、以下の動画では"Raw Power"でリズムを刻むマッケイが確認できる。

メイシオ・パーカーといえばJB’sで、JB’sといえばホーンセクションに初めてリズムを刻ませたバンドとして名高い(ピーター・バラカン談)。
ストゥージズ参加40年目にして、とうとうマッケイはイギー最初の要請どおりの「メイシオ・パーカー」になったわけで、彼にしてみるともっと早くウイリアムソンと出会っていれば良かった、と思ったかも知れない。

ただ、実際には何らかの打楽器らしきものを持ったマッケイがステージに立っている写真や動画があったりするので、最初から最後まで吹き続けていたわけでもないようだ。以下は"Search and Destroy"の演奏シーンらしい。

ロンを貶めるつもりはないが、バンドマスターとしてはウイリアムソンの方が優秀だったようだ。
マッケイ以外にも、”Ready to die”のレコーディングの際、マイク・ワット用にわざわざベースが目立つパートを書いてあげたそうで、「ジェイムズ・ジャマーソン(モータウンのスタジオ・ベーシスト)みたいに弾いてくれ」と頼んでレコーディングを盛り上げたという。

また、イギーにもマッケイに気を配らせたくなる事態が起こる。
再始動の翌2010年にストゥージズは”Fun House”と”Raw Power"によるロック界への影響を評価され、遅まきながらロックンロール・ホール・オブ・フェイムに選ばれるが、受賞対象者にマッケイとスコット・サーストンが含まれていなかった。これに憤ったイギーは選考委員会に彼ら2人も選ぶように公式書簡を発送するが、委員会は承諾しなかった。
授賞式に本来受賞者でない人物が登壇することはまずないが、納得できないイギーは委員会への抗議の意味も込めてマッケイとサーストンの2人を授賞式に呼び、彼らと一緒に賞を受け取って見せた。

この一連の騒ぎを申し訳なく思ったイギーは、無償で”Sometimes like This I talk”に参加する。
#7 The Prisonerのバックトラックがマイアミのイギーのスタジオに送られ、イギーはヴォーカルを吹き込んで送り返した。正式な契約を締結していない参加なのでイギーは「Ypsi Jim」と名乗っているが、これは出身地のイプシランティ(Ypsilanti)から取った名前だそうだ。

そんな感じでマッケイがストゥージズ内の存在感を高め始めた頃、Radonがマッケイ専用レーベルのようになったことで、ニーデガーは別にPolygotというレーベル兼ブッキングエージェントを立ち上げる。
ニーデガーという人は正直、組織の代表には向かない人のようで、RadonもそうだったがこのPolygotもちゃんと情報発信してくれず。活動実態がよく分からない。

http://radonbooking.wix.com/polyglotagency

しかし、ビジネス界で急速に存在価値を増し始めた中国に目を付け、チャイナ・プロジェクトというのをこのレーベルで開始したらしい。北京でミュージシャン発掘などを開始し、2012年にマッケイを北京に呼んでNojiji collectiveというバンドと共演してもらっている。マッケイはその翌年の2013年5月にも中国を訪れ、再度ニーデガーと共演したようだ。

こうしてRadonからのアプローチがなくなり(というかマッケイ自身のレーベルみたいなものなので彼が動かなければ動かないが)、ストゥージズ仕事も忙しくなったことで、2010年を頂点として、マッケイのソロワークのペースは急速に落ち着いていく。散発的にレコーディングは続けていたようだが、マッケイ自身も2012年頃のインタビューで「ストゥージズがファーストチョイス」というような発言をしている。

2012年頃にマッケイはこれもマイク・ワット人脈のWillie Waldmanというスヌープ・ドッグとも仕事をしたことがあるらしいトランペッターとレコーディングセッションをしているようだが、音源はリリースされていないようだ。
また同じ時期にベルギーでもレコーディングしているそうだが、オリジナル曲でなければストゥージズのカバーのこれのことを言っているのかも知れない。

https://www.facebook.com/SpeedballJR/photos/a.152431804782483.26687.151771678181829/998983083460680/?type=3&theater

よって、2011年、2012年はストゥージズのツアーに全力投球し、そのまま”Ready to die”のレコーディングに入ったと思われる。2013年に発売された”Ready to Die”についてのマッケイの発言は見つからないが、ウイリアムソンのソロワークにはその後も付き合っているので不満は無かったんだろう。
2013年も再結成なったヴァイオレント・ファムズと付き合いつつ、基本的にはストゥージズに専念するつもりだったようだが、イギーが2013年後半から2015年までの全面休養を宣言したため、再びソロ活動に突入する。

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