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2016/06/18

スティーヴ・マッケイ バイオグラフィー(4)

今回は雌伏期から復活への兆しと死亡説の数々。今回もストゥージズのメンバーは最後の1行に出るだけです。

マッケイは80年代後半から90年代を通して本業は電気技師だったが、音楽業界から足を洗った後は30年間ギターを握っていなかったジェイムズ・ウイリアムソンと異なり、業界と全く関係を断ち切ったわけでもなく、ヴァイオレント・ファムズ絡みのライブには呼ばれれば参加していたようだし、コマンダー・コディのレコーディングにも参加して音源を残している。

https://www.discogs.com/ja/Commander-Cody-And-His-Lost-Planet-Airmen-Aces-High/release/5827934

(7月10日一部修正)
また、The Bay Area Boat Clubというお金持ちが集まる場所で毎月第三木曜日にライブを開いていたそうだ。おそらくラウンジ・ミュージックみたいなものを演奏していたと思われる。
開催日から「Third Thursday Band」と名乗った彼らは他のクラブにも出演していたそうだが、マッケイ自身は音楽に専念する気は起きなかったようで、継続的な活動には繋がっていない。

ところが、21世紀を迎えて自分の息子くらいの歳のアヴァンギャルド系ミュージシャン、スコット・ニーデガー(Scott Nydegger)と出会って以降、音楽キャリアが徐々に好転していくことになる。

スコット・ニーデガーは1974生まれでアイダホ州出身。ドラマーでLos Angeles Free Music Societyのフォロワー。

Los Angeles Free Music Society(略称・LAFMS)とさらっと書いたが、自分もそれって何さと聞かれても通り一遍のことしか知らない。ロサンゼルスを中心としたアバンギャルド系ミュージシャンたちの緩い繋がりを指している言葉で、ジョン・ケージやエリック・ドルフィーといった面々の子孫たちであり、ザッパ、サン・ラ、キャプテン・ビーフハートといったメジャーなアバンギャルド系よりも、更に商業シーンから離れた音楽を志向する彼らは当然のことながらAmazonで言うところのロングテールの端の方にいる面々。意識的に彼らを聴くことを選択した人以外のスコープにはまず入ってこない。通常の音楽業界とは別のレイヤーに属する。

http://www.lafms.com

しかし、上記に挙げたミュージシャンたちは広く薄くよりも狭く深いファンが多いように、彼らには更に狭く狭くしかし深い深いファンというよりマニアというかフォロワーが世界中に点在する。よって日常的には耳にしないが、その隠れたネットワークは広いという存在ではある。特にLAFMSの中心的なバンド、Smegmaは商業的にも成功したと言えるようで、オレゴン州ポートランドにスタジオを持っている。ここはカート・コバーンがレコーディングセッションに使ったこともあるそうだ。

http://smegmamusic.com/site/?cat=24
http://www.livenirvana.com/sessions/studio/october-1990.php

ちなみにLAFMSを全く知らない方(自分含む)でも、日本でそのネットワークに繋がっているミュージシャンは非常階段、というと一定以上の年代の方にはその存在のイメージが湧くんじゃないだろうか。

http://blog.goo.ne.jp/googoogoo2005_01/e/4aee87a41fcead0d4a0df16d8982c53c
http://blog-kichijyouji.diskunion.net/Entry/5473/

さて、その特殊音楽のフォロワーであるところのスコット・ニーデガーが初めてFun Houseと印象的なサックス演奏とそのプレイヤーの名前を耳にしたのは1996年。21才の時に実家で耳にしたそうで、合わせてマッケイは1975年にオーバードーズで死んだというデマも聞かされて信じていたそうだ。

マッケイの死亡説は本人によると3回出回ったそうで、1回目は一番有名な1975年死亡説。これは英国人ジャーナリスト、ニック・ケントがイギーとストゥージズに関する著作だか特集コラムだかで、ストゥージズのベーシストを短期間務め、1973年にオーバードーズで他界したジーク・ゼトナーとマッケイを取り違えて記述したのが原因らしい。
他界した人物といい、他界した年といい、この噂は(あるいはニック・ケントの取材は)二重に間違っている。
2回目は1983年に出回ったもので、肺疾患を患ってサンフランシスコで死亡したというもの。
(6月23日追記)
彼が1983年に汚水処理場でパワープラントエンジニアを勤めていた際、有毒ガスを吸い込んで死にかけるという経験をしていたそうで、これが噂の元になったらしい。ちなみにこの発言が掲載されている媒体では「マッケイはアマチュアの電気技師だった」と書いているがマッケイ本人がそう発言していたのかは不明
噂自体はマッケイ自身がSnakefingerやV.ファムズと西海岸での共演を続けていたため、短期間で終息したようだ。
最後は2000年頃。これは同姓同名のマラソンランナーで作家のアフリカ系アメリカ人がエイズで死亡したニュースを、彼のことだと勘違いした誰かがSNSで拡散したのが原因だという。
2000年頃にこれらの死亡説はMTVによって検証され、彼の雌伏期間を終わらせる一助にはなった。

しかし、1975年死亡説は、Fun Houseを耳にしたニーデガーが一緒にいた仲間のギタリストに「サックスは誰?」と聞いたら「スティーヴ・マッケイ、1975年にオーバードーズで死んだってさ」とさらっと返してきたらしいので、かなりメジャーな噂だったことが伺える。

その3年後の1999年にニーデガーはフランスはボルドー出身のヤン・ジェフロード(Yann Geoffraud)とともに、北カリフォルニアのヒッコリーでアヴァンギャルド系音楽デュオ、Sikharaの活動を開始するとともに、インディーレーベルRadonを主催する。
Radonの由来は元素名。開始時に根城としていた地下室を「放射性物質除去装置(Radon Trap)」と呼んでいたからだそうな。因みにSikharaの由来はチベットの寺院名だとか。

ニーデガーは元々放浪癖のあるボヘミアンみたいな人だそうで、少し後の話になるが、1999年から2004年までに23カ国を訪れ、2002年には日本にも来て大阪の善宗寺(?)でセッションしたと言っている。そんな感じで世界中を回って同種の音楽を愛好する面々と交流する旅の途中に、パリで相方のジェフロードと知り合ったという。
この辺りミュージシャン同士の緩い繋がりを形成していったところもLAFMSの影響と言えるかも知れない。
Radonも自分と周囲の仲間たちの音楽を形にするための活動の一環として始めたようで、配給形態はCD-Rという零細レーベルだった。
ちなみにこの「周囲の仲間たち」のことを、ニーデガーは「Radon Studio」と呼んでいる。物理的なスタジオ名ではないので、Radon Studioは所在地を調べても出てこない。元々この呼称が先にあって、それをレーベル名にしたようだ。
その後、ニーデガーは活動拠点をLAFMSに関係するミュージシャンが多数居住するオレゴン州ポートランドに移す。

さて、ニーデガーがマッケイ死亡説を信じてから4年後の2000年、、死んだと思われていた当の本人は、1997年にBlack to Commというファンジンでインタビューを受けて以来友人となっていたライター、ローレン・ドブソンの紹介でインストゥルメンタルミュージシャンのLiquorballと知り合う。このLiquorballがニーデガーのネットワークに繋がっていたことから、スティーヴ・マッケイの音楽キャリアが再び動き出す。

ニーデガーは、やはり知り合いのバンドTemple of Bon Matinのライブを見物するため西海岸に滞在中だった時、そのライブの数日前にLiquorballから、マッケイの存命と現在彼が電気技師をしていること、そしてThe Crocodileというクラブで行われる企画ライブ、North Beach district of San Franciscoで共演することを聞かされる。

興味を持ったニーデガーはNorth Beach districtの当日にThe CrocodileへTemple of Bon Matinとともに向かった。
所詮はクラブなのでステージをはけたマッケイが戻るような楽屋はなく、マッケイは演奏後にそのまま客席で一杯始めていたらしい。ニーデガーは客席を探し回り、無事マッケイとのファーストコンタクトを果たすことになる。
マッケイはご機嫌だったようで、Temple of Bon Matinのヴィニーというアルトサックス奏者とライブハウス前の通りでセッションを繰り広げたそうだ。

Wikiではニーデガーが死亡説に義憤を感じて、それを否定するために1999年に”Daeth City"というシングルをリリースしたとあるが、ここまで辛抱強く読んでいただいた方にはお分かりのとおり、1999年時点だと2人に面識はない。マッケイもニーデガーもそんな事は言っていないので、これはおそらく誤り。

https://www.discogs.com/ja/Steve-MacKay-Death-City/release/6668496

“Death City”は確かにRadonからリリースされているが、それを在庫しているショップの情報に依ればリリース年は不明で、収録されている音源は1969年のCarnal Kitchenのライブ。おそらく2009年のCarnal Kitchenの40周年ライブ”North Beach Jazz”の会場で販売されたものと思われる。そもそも、このシングルをマッケイの生存証明にするつもりだったなら、収録するのは30年前の音源でなくて新録だろう。

https://www.discogs.com/ja/Steve-Mackay-North-Beach-Jazz-Carnal-Kitchen-40th-Anniversary-Sessions/master/774625

話を戻して、The Crocodileでの2人の出会いは挨拶とセッションで終わったようだが、しばらくしてマッケイはニーデガーへ連絡を入れる。内容は、自分の持つ未発表音源を自費でCD化したいというものだった。

実はRadonはニーデガー単独で主催していたわけではなく、ポール・ビーチャム(Paul Beauchamp)という同じアヴァンギャルド系ミュージシャン兼エンジニアがパートナーとして存在し、ニーデガーと彼が相談した結果「これまでリリースしてきたものと毛色が異なるが、客層が広がるかも知れない」と意外にビジネスライクな判断で、この申し出を受けることに決まったという。

こうして2000年にCarnal Kitchen初のフルアルバム"En Voyage”がリリースされる。これは前回でも紹介した1978〜79年の音源で、意外にもスタジオ録音

https://www.discogs.com/ja/Steve-Mackay-En-Voyage-A-Retrospective/release/3017585

マッケイが何故この音源を選んだのかは分からないが、おそらくちょっと時期はズレたがCarnal Kitchenの30周年記念を意識していたのかも知れない。

その後、マッケイから言い出したのかニーデガーから言い出したのかは分からないが、マッケイとRadonの面々はともに西海岸ツアーへと出発し、その最中にロサンゼルスのカレッジラジオ局、KFJCのDJ、マーロン・カスバーグの番組に呼ばれて、Radon勢との共演を披露する。このKFJCにおけるコラボレーションが、マッケイのソロアルバム「Tunnel Dinner」や「Michigan and Arcturus」に繋がっていくことになる。
ちなみにKFJCはレーベルも持っていてアヴァンギャルド系の企画盤やライブ盤を結構出している。

https://www.discogs.com/ja/label/94830-KFJC

こうして考えると、マッケイは駆け出しのアヴァンギャルド系ミュージシャンには言葉は悪いが使い勝手が良い存在だったかも知れない。知名度は「あの”Fun House”の….」と言えば、クラシックロック系のファンにも訴えかけてこれまでよりも多い集客が望めるし、その演奏はアヴァンギャルド系に混じっても特に浮いたりすることはないからだ。西海岸ツアーを申し出たのがRadonかは分からないが、マッケイを看板にしてツアーに出たいと言い出しても不思議ではない。
Radonはレーベルだけでなく、ブッキングエージェントもしていたらしいので、関係するミュージシャンたちの顔見せ興行的な意味もあったかも知れない。

こうしてマイナーシーンながらも、マッケイが音楽業界のスコープに再び入り始めた2001年、ロン・アシュトンからライブへの参加を打診する連絡が入る。

(本稿続く)

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