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2016/06/12

スティーヴ・マッケイ バイオグラフィー(2)

今回はストゥージズへの参加と離脱、その後のアナーバーでの活動まで

ロックバンドとサックスプレイヤーという組み合わせは、ある時期からダサいこととされ、デヴィッド・ボウイがサックスを持ってステージに上がるまで、サックス奏者がロックバンドのフロントに立つことはイキった若手の間では問題外だったようだが、どういう発想からかストゥージズは1970年の時点で「ホーンはホーンでもセクションではなくソロのサックスを導入し、フリージャズみたいに吹かせる」という結論に至った。

1970年の春、マッケイはイギーから運命の誘い、デトロイトで行われるストゥージズのジャムセッションに参加して欲しいとの依頼を受ける。レコードショップを辞めて参加してくれ、という依頼だったそうなのでオーディションという意識はあったようだ。
マッケイ曰く
「コーヒーを通してストリートからストゥージズに辿り着いた」

(6月23日追記)
イギー曰く
「自分が求めていたのは、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルといったパートから得ていたものと同じようなエネルギーを与えてくれるものだった。スティーヴは非常にクリエイティヴだったし、レザージャケットを着るようなありがちなロック野郎じゃなかったのもよかったね。3ピースで決めた50年代の男だったよ」

これを承諾したマッケイはイギーからの「アシッドをキメたメイシオ・パーカーみたいにプレイしてくれ」という要望に「問題ないよ」とこれをこなし、"Fun House”と”1970"をプレイした。ちなみにこの2曲は彼を意識して書かれた曲だったようだがマッケイは「そんなこと知らなかった」
このセッションでマッケイが一番気に入ったのは”Fun House”で、マッケイ曰く「ファンキーに自由に吹けるなんて最高だ!」
マッケイは自分が参加していない曲も気に入っていたそうだが、そんな彼にとって嬉しいことに、オーディションは成功し、レコーディングへの参加要請が舞い込む。

彼は大学を辞めてLAに向かい、レコーディングに参加して前述の2曲に加え、“L.A. Blues”でイギーが後に「A Demonic Howl」と呼ぶ印象的な演奏を残す。
マッケイのレコーディング対する感想は「プロデューサーのドン・ガルッチは好きなようにやらせてくれたね。我々の全てを活かしてくれた。」
また、みんなラリっていたから、彼のそういう手法はマッチしていたと思う、という意味の発言もしている。

当然ながら、そんな彼にはツアー参加要請という更なる幸運が舞い込む。
当初は6週間と考えていた契約は伸びに伸びて6ヶ月に及び、最終的にはストゥージズ崩壊直前の時期に解雇される。
マッケイ曰く
「イギーにクビを言い渡された時はちょっと嬉しかった。全ては悪い方向に向かっていたからね」

別れは友好的なものだったそうだが、その後、マッケイからイギー以外のストゥージズのメンバーに連絡をとることはなかったようだ。連絡先の交換くらいはしていたかも知れないが、ジャンキーとネオナチかぶれの変人(ロン・アシュトン)の集団と距離を置きたくなる気持ちは分かる。
(6月23日追記)
その後、もう少し本音で語ったインタビューを読んだので追記
マッケイは、そもそもがサックスという楽器の特質としてもっとリードを取らせて欲しいとイギーに頼んだが断られ、そのままクビになったらしい。
マッケイ曰く
「サックスって楽器がトップに立つのが普通と言うことは知っていた。だが自分はバンドのパーツとして演奏することを望んでいた。だからギターとの絡みやソロパートをもっと増やして欲しいと頼んだんだ。でも、イギーの回答はこうだった『じゃあ、ストゥージズは次のステージに進むことにするよ。そこに君の居場所はないな』」
イギー曰く
「俺はこう応えたんだ『見ろよ。これはロックバンドだ。サックス奏者をあり得ないくらいにフューチャーしたロックバンドだよ。自分はそれ以上のことはできないな』」
「活動の中でスティーヴが気に入らないこともあったろうな。彼は大学生のバンドみたいな実験的な音楽を演奏したがっていたからね。彼みたいな才能の持ち主はいなかった。だからストゥージスは彼に合っていると思っていたよ」

(7月1日追記)
インタビューでは時系列がはっきりしないのだが、おそらく第一期ストゥージズ崩壊寸前の時期に何故かドラマーとして1回だけライブに参加したらしい。
ローディも兼ねていたらしいスコットが、ニューヨークからデトロイトへの移動中に高さ12フィートのトラック(こういう奴)で10フィート6の鉄橋をくぐろうとして屋根を吹き飛ばすという下手を打ってしまって会場へ行けなくなった時、当時のストゥージズの面々が「曲も知ってるし、リズムも大体分かるだろ」ということでデトロイトで暇していたマッケイに声をかけ、1晩だけのリハーサルで翌日ステージに上げてしまったのだという。
引き受ける方も引き受ける方だが、「知ってるだろ」と判断する方もかなり雑な判断。事実、マッケイはこれまで聴いたことない曲をロンがリハーサルで弾き始めて焦ったという。
もちろん、そんなんでこなせるわけがなく、ライブが始まると同時に元ドラマーのイギーがドラムセットのそばに行ってスティックを握り「こう叩け、ああ叩け」と指示してくれたので、何とか最後までやりきったそうだ。
マッケイ曰く
「ライブが終わったら、ローディが『あんたの人生の中で一番キツいライブだったな!』と慰めてくれたよ。50ドルしか貰えなかったけどね」

ウイスキー・ア・ゴー・ゴーやフィルモア、ニューヨークのThe Ungano、グース・レイク・インターナショナル・ミュージック・フェスティバル、シンシナティ・ポップ・フェスティバルといったストゥージズの悪名を高めたライブには一通り参加していた彼だが、意外にもかつてのももクロのように「週末だけ参加して、平日はデトロイトに戻っている」という生活を送っていた。
マッケイが言うには「ヴォーカリストの怪我が治るのに1週間かかってたからね」

そんな中で彼が印象に残っているライブはどこかのバスケットボールコートで開催されたもので、観客にダイブしたイギーが会場の反対側まで運ばれてしまったので、演奏が終わった頃には自分たちも始めた時とは反対側に移動していた、という経験だったそうだ。
彼に依れば「イギーはステージダイブの発明者だ」

ちなみに、当時のストゥージズのライブの通常の終わり方を、メンバーは「a Hippy or Freakout ending in freeform」と呼んでいたそうで、ダイブしたイギーが観客に連れ去られている間にギタリストは退場。ベーシストはフィードバックを鳴らしながら退場、そして、イギーを放っておいてみんなステージから捌ける、というものだったという。

ところでWikiのステージダイブの項目では「欧米ではCrowdsurfといいダイブとは言わない」という記載があるが、マッケイは「Stage Dive」と言っている(Crowdsurfとも言っている)。おそらくCrowdsurfの方が”クール”な呼び方で、今はStage Diveという言い方はあまりしない、けど通じるというくらいの話だと思う。

閑話休題。
1971年にストゥージズをクビになったマッケイは、アナーバーに、レコードショップに、Carnal Kitchenに戻った。
大学卒業後には相棒のランパートが就職したのか何なのかCarnal Kitchenは活動を停止し、マッケイは1972年にThe Mojo Boogie Bandというバンドへ参加する。
基本的にこのバンドは地元アナーバーで活動し、ツアーをしてもミシガン州内。遠出してもせいぜいシカゴだったらしい。
http://theconcertdatabase.com/artists/mojo-boogie-band

レコーディングはしていたのかも知れないが、発売されていたのかは不明。しかし驚いたことにこのバンドをYoutubeで検索するといくつか音源が出てくる。
https://www.youtube.com/results?search_query=the+mojo+boogie+band

(7月10日追記)
このバンドの活動の白眉はアンドレ・ウイリアムスという有名なロカビリー歌手とセッションを行ったことらしい。
マッケイは元々彼のファンだったそうで、2012年頃のインタビューで
「75才でニューアルバム出すなんて凄いことだよ!」
と語っている。
ちなみにアンドレ・ウイリアムスは2016年現在も存命どころかアルバムまで出している。

The Mojo Boogie Bandは1976年に活動を停止し、マッケイはイギーが“The Idiot”で復活した年、1977年頃にベイエリアへ移る。

マッケイ自身が語る1972年から1977年までの自身の音楽活動は、この地元ハコバン的なThe Mojo Boogie Bandの活動が全てということになるが、このバンドがどんな活動をしていたのか、という詳細は語っていない。

(7月10日一部修正)
マッケイによれば、この頃から既に電気技師になるための修行を開始していたらしいので、このバンドはどちらかというと趣味的なバンドだったのかもしれない。
間近で見たプロのミュージシャンが「あの」ストゥージズなんだから。彼が堅実志向になっても誰が責められよう。
1977年頃にベイエリアに移ったのは、技師の仕事もバンドの仕事もありそうな土地に向かった、ということと考えられる。あるいは単にベイエリアで技術職の就職先にありついた、とか。

夢がない、と怒られそうだが、マッケイが手に職を付けたからこそ、2003年まで無事生き延びて再結成ストゥージズにオリジナルメンバーのほとんどが揃うことになったわけだから、正しい判断だったと思う。
まあ、勝手な推測が当たっていれば、の話ではあるが。

(本稿続く)

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