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2016/06/09

スティーヴ・マッケイ バイオグラフィー(1)

まずはイギーとの出会いと友人関係になるまで

この駄文は、ストゥージズがロックの伝説となるために重要な役割を果たしたスティーヴ・マッケイの経歴を、自分の母国語で書き残しておくのが微力ながら彼の偉業への賛辞になるかと思い、したためた。
どなたかの参考になれば幸いと思う。

ストゥージズの傑作「Fun House」は聴き取れる様々な音楽要素からプロトパンクと言うよりもポストパンクの祖を思わせるアルバムだが、そのミクスチャーぶりを決定づけているのがスティーヴ・マッケイのサックス。
レッチリのライブ終わりにフリーがトランペットを吹き鳴らすパートも、マッケイがいなければ存在しなかったかも知れない。

そんな重要な存在ではあるが、日本語で「スティーヴ・マッケイ」とぐぐると166件しか該当しない。そのほとんどが死亡記事か、元Pulpのベーシストや総合格闘家といった同姓同名の人達のニュース
ちなみに元Pulpのリーダー、ジャーヴィス・コッカーの2ndソロアルバム”Further Complications"には本稿とベーシストのスティーヴ・マッケイが顔を揃えている。
死亡記事以外で彼の名前が大きくクレジットされた日本語の文章というとこれくらい。

http://onyak.at.webry.info/200506/article_8.html

尤もこの方はSmegmaのファンであって、マッケイにはゲスト以上の興味はお持ちになっていない模様

英語で「Steve Mackay」とぐぐると打って変わって35万件該当するが、先頭に出るのはやっぱり死亡記事で、他の記事も基本「名前が出ているだけ」の記事が多い。
そんな英語記事の中で珍しく彼が自分の経歴について語っている記事を2本見つけた。
本稿ではこれに加え、”Sometimes like This I Talk”のライナーで、スコット・ニーデガーが語っているマッケイ復活までの経緯とWikiを参照の上でまとめている。

スティーヴ・マッケイが生まれたのは1949年9月25日
ストゥージズのメンバーと比較すると、イギー・ポップより2才年下で、ロン・アシュトンより1才年下、スコット・アシュトン、ジェイムズ・ウイリアムソンと同い年。
生誕の地はミシガン州第2の都市、グランド・ラピッズ
母親はカリフォルニア出身の2000曲は記憶しているピアニストだったそうで、音楽環境には恵まれていた。
(7月1日追記)
父親はブルーカラーだったそうだが、ご先祖にはアンガスというヴィクトリア女王お抱えのバグパイプ奏者がいたそうで、梅毒に罹患して行動がおかしくなったのか「Mad Angus Mackay」と呼ばれていたらしい。1848年に亡くなっていると聞いているそうだ。マッケイは彼を尊敬していて自分の版権管理会社の社名を「Mad Angus Music」としている。

小学校4年生の頃、アルト・サックスを皮切りに管楽器のレッスンを開始
母親のコレクションからスタン・ゲッツやマイルス・デイヴィスを聴き、ラジオから流れるホーン楽器の演奏を片端からチェックして過ごしていたという。

彼が影響を受けたミュージシャンとして名を挙げているのは、上記2名に加え、キング・カーティス、ブーツ・ランドルフ、ゲイリー・マリガン、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、ジュニア・ウォーカー。
因みに海の向こうでの彼は「オーネット・コールマンのフォロワー」と評価されているらしく、そのこと聞かれて「もちろんパクった」と肯定している。
ロック勢、R&B勢の名前が全く無いのが興味深い。

また、音楽の家庭教師も付けてもらっていたそうで、その家庭教師にジャズ・レーベル「Music Minus One」に連れて行ってもらい、バスーン(ファゴット)のレッスンを受けたという。このレーベルはまだ活動しているらしい。

https://en.wikipedia.org/wiki/Music_Minus_One

正式な音楽教育を受けることができたからか、インタビューを読む限りでは、彼はサックスは3種類演奏できたようだ(アルト、テナー、バリトン)。

彼の中学、高校時代にブリティッシュ・インヴェイジョンが到来し、仲間はみんなエレキギターを握ったが、正式に管楽器の教育を受けていた彼がサックスを手放すことはなかった。そのため、仲間内では他にサックス奏者がいなくなってしまったこともあり、バンドに誘われれば必ずリードを務めることができたという。そんな恵まれた環境下で高校(East Grand Rapids High School)時代にChaos Inc’というバンドを結成し、グランド・ラピッズ近郊のロウアー半島を一通りどさ回りしたそうだ。
(7月10日追記)
奇縁だが、その際、マネージャーとして売り込んできた人物がイグアナズのマネージャーだったそうで、彼にマネジメントを任せた際にマッケイとイギーは面識を得たという。そんな経緯があったからか、マッケイは基本的にイギーのことを本名の「ジム」で呼ぶ。
ジェイムズ・ウイリアムソンも語っているが「200ガロンサイズのドラム缶をでかいハンマーで叩いて」いた頃、中二病真っ盛りの初期ストゥージズのライブを見たこともあったそうだ。
マッケイ曰く
「当時の彼らのライブはこんな感じだった。『次の曲は”Dance of Romance”』って紹介した後の演奏は『あぎゃああああああああああ』、で『次は"Asthma Attack”』、その後はおんなじように『あぎゃああああああああああ』。こりゃいかしてる、と思ったな」

話を戻して、10代でセミプロ活動をしていれば、普通のミュージシャンのプロフィールなら、それが原体験になって高卒でプロのミュージシャンとしての活動が始まったりするが、彼はそうはせず、1967年に高校を卒業するとUniversity of Michigan Art Schoolに入校し、音楽家としての腕を更に磨く道を選ぶ。これは4年制の大学で、ホームページは以下。

http://stamps.umich.edu

マッケイはプロのミュージシャンを目指していたそうだが、父親が「あれは趣味だろ」とそのままプロになることには反対だったそうなので妥協案だったらしい。
ところが、この大学がストゥージズの面々の出身地、ミシガン州アナーバーにあったことからその後のキャリアに繋がっていく。

(7月10日一部修正)
父親については「ブルーカラーだった」とは言っているが、職業に関しては説明していない。ひょっとすると電気技師だったのかも知れない。彼は音楽で食えない時期に電気技師というキャリアとの絡みが感じられない職業に就いているが、父親が同じ職で勝手が分かっていたから選んだ(資格を取った)という可能性はある。
家庭教師の件といい、大学に行けたことといい、それなりに裕福な家庭だったことが伺われ、マッケイ自身も「グランドラピッズのビバリーヒルズみたいなところに住んで、非常に良い教育を受けさせてもらった」と語っている。
ミドルクラスの黄金期だった1950年代アメリカの恩恵を受けることがまだできたんだろう。
ただ、高校時代に両親は離婚したらしい。2012年頃のインタビューで「そのころは父親と義母と住んでいて、高校は(離婚の影響は受けず)同じところに通っていた」と語っている。

大学入学後にはBilly C. and the Sunshineというプロのブルースバンドに参加。Clint's Clubで週に5日演奏し、翌朝8時に通学するという生活を送っていたが、このバンドがThe Charging Rhinoceros of Soulと名前を変えてR&Bの曲をレパートリーの中心に据えた辺りで飽きが来て、以前からつるんで実験音楽を続けていた高校時代の友人、マーク・ランパートとCarnal Kitchenを名乗って”もし音楽が愛の糧であるなら、それを喰らえ”をモットーに活動を開始する。

そういう風に始まったCarnal Kitchenだが、後にはマッケイの別名義、といった感じになってしまったようで、マーク・ランパートがいてもいなくてもマッケイのユニットには「Carnal Kitchen」という名前が採用されていたりする。

それはともかく話を戻すと、このデュオはサックスとドラムという組み合わせで、ストリートから活動を開始して徐々に似たようなミュージシャンたちを交流を深めていき、1969年初頭の母校University of Michigan Art Schoolの学園祭的催しで初の晴れ舞台に上ることになる。
そしてその晴れ舞台を最前列で見物していたのが、かつて同じマネージャーに世話になっていたイギーことジム・オスターバーグだった。
この頃のイギーの格好はジェイムズ・ウイリアムソンによれば「眉毛を銀色に塗りつぶしていた」とかしていたそうで、マッケイも「客席でも非常に目立っていた」と語っている。

(7月10日一部修正)
ここに人は運命を感じてしまうところだが、実はこの頃のマッケイはイギーが務めたこともあるレコードショップ「Discount Records」に勤務していたそうで、そこの店長ジープ・ホランドとイギーは付き合いが続いていたらしいから、イギーは店長からCarnal Kitchenのことを聞いて観に行ったという可能性が高い。ちなみにこのジープ・ホランドはイグアナズ時代のジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアに「イギー」と名付けた人物らしい。ジムが「イギー・ポップ」とフルネームを名乗るのはもっと後だが。
ロン・アシュトンによれば、イギー勤務時代には後にストゥージズを名乗るメンバーが暇つぶしによく行っていたレコードショップでもあったという。

そんな縁もあってか「かつての知り合い」だったマッケイとイギーは友だちとなり、よくコーヒーショップで「バンドを仕切るのは面倒くさい」という愚痴をこぼし合っていたという。

(本稿続く)

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